2022-07-16

「患者の数だけ病気の種類がある」という、一見もっともらしく聞こえる考え方は行き過ぎなのです。分類は分けすぎると役にたたなくなるのです
村井俊哉『はじめての精神医学』



 今日は短め。
 朝、今後しばらくは髪を切るタイミングがないことに気付いたので適当に自分で切った。そこそこ上手くいったので満足。散歩に出てしばらく本を読み、シャワーを浴びたりワイシャツにアイロンがけしたりしてバイトに行った。バイトでは二次方程式と二次関数を教えた。担当の生徒が月曜日に授業を振り替えしたので、授業の指示と出す宿題を印刷してメモ書きする無賃労働をし、途中に今度行く迎賓館のアフタヌーンティーの予約をした。定期テストから夏期講習までの期間を見越してカリキュラムを組むんだけど、結構夏期講習前にガンガン進んじゃってどうしようという気持ち。帰りにバイトの人とモンエナを買おうという話になり、「ぼく50円引き券2枚持ってるんで奢りますよ」と言ったら引かれてしまった(注:ついこの間までファミマではモンエナを1本買うと50円引き券がもらえる無限ループをしていた)。そんなこんなで帰ってきてインターネットを眺めたりしていまこれを書いています。日記は深夜2時まで起きて書くものではありません。みなさんも気をつけましょう。


 オタクのよく使う言い回しに「解像度」があります。御多分に漏れずわたしも解像度という言い回しが好きです。ぼくは勉強する理由は「世界の解像度を上げるため」だと思っています。解像度教です。「粒度」という言い回しもよく使います。
 世界の解像度を上げるのに一番有効なのは言葉を知ることです。言葉を知るだけで、世界で衝突する「なんかキモい物体」を意味体系の中で位置付けることができます。位置付けできた情報に対してなら対処ができます。ここまで書けばわかると思いますが、冒頭の引用の話です。分類というのは適切な数というある種の有限性があって意味を持ちます。無駄に指標を増やすのは世界の解像度の向上に繋がらないどころか、むしろノイズにすらなりうるのです。
 例えばある現状ではDSMやICDなどに登録されていない"症状"に対して、精神科医でもなんでもないよく分からん人間が「X」という名前を与えて大バズりしたとします。きっと「わたしもXなんだ」と言う人も出てきます。では「X」という言葉の導入で世界の解像度は上がったでしょうか。答えはNoです。まず第一にエビデンスが0です。エビデンスというのは客観性ではなく共通了解の基盤ですから、これを欠いた言葉は世界を描く素子としての信頼性が無いです。そして大抵において、「X」という「症状」は既に存在する(DSM, ICDにある)症状の線形和になります。この線形和の係数を探るのが診断という作業であり、それをゴチャッと「X」に纏めて世界の解像度が上がることはないです。ぺダンティックなアナロジーを使えば、これらの概念は世界の新しい基底になるだけのものを供えていないです。DSMは日々進化しています。必要とあれば知的能力障害の診断基準からIQテストの値を除外するなど大きな変更も加えています。もちろん現在の精神医学が掴めていない「症状」も、あるいは存在するかもしれませんが、それらの情報が十分に集まれば医学はそれに対してアプローチしますし、それが十分に症状として確認できれば登録するでしょう(最近ではICDのゲーム依存が有名)。たいていあなたが感じる「キャッチーな似非病名」は「不安」と「睡眠不足」と「うつ」と「先天の発達障害素因」の線形和です。気になるなら受診しましょう(受診の機会を削ぐという意味でもキャッチーエセ診断は有害です)。
 ちなみにわたしは自殺したときに精神科の受診歴があるとダサいという一点だけで受診してないです。


 ぼくは言語の謎を解明するのは生成文法でも認知言語学でもなく脳神経科学だと期待しているので、生物屋の人には頑張ってほしいなあと思います。生成文法認知言語学もおそらく粗い(が、神経科学に入り込まないレベルでは精度のいい)近似だと思いますが、知能というものが案外にシンプルな原理で動いていることに期待します。あるいは神経科学の先に神学があるかもしれません。それはそれで。