2022-07-22【リヒター展ネタバレ含む】

昔みたいにやろうよ、と僕は誘う。『精神疾患の診断と統計マニュアル』を開いて、僕の次のイカレ方を選ぼう。

チャック・パラニューク『サバイバー』)



 12:00過ぎ、JR四ツ谷駅に着いた。ぼくの家からだと一本遅れると30分ほど後になるので、仕方なく早めに向かい、アトレに入って本を読みながら待っていた。12:30に来た連絡が通知に出なかったのでちょっとトラブった。
「今ちょっとLINE壊れててぇ」
 その後は歩いて迎賓館に向かった。入口では手荷物のX線検査にボディーチェック、液体爆発物検査をして入った。ぼくはトロピカーナの鉄分? てやつを持ってたけど、残り少ないのでもうここで飲んでくださいと言われてしまった。
 大学生は迎賓館の庭に入るだけなら無料で嬉しい。
迎賓館、デカい。アフタヌーンティーてケーキばっかり出てくるのかと思ってたら上段がデザートで下二段はオードブルという感じだった。ぼくはド偏食でパプリカの類を食べないのだけど、ここで出てきた料理(クロワッサンのやつ)は美味しかった。
面白いのは中段のピラミッドみたいなやつで、カレー粉を潰したジャガイモに混ぜてる? ぽいやつ。すごい使い方だなと思った。カマンベールとオレンジを合わせるセンスもすごい。
 午前の雨を忘れたような、雲がゆったり流れていく快晴の下、非日常的な庭園でアフタヌーンティーをしている状況がかなりシュールで、ちょっとコントっぽいなと笑ってた。


 アフタヌーンティーを終えたあと、主庭の方をぶらつきながらこの後どこに行くかという話になり(注:人生論ではなく、その日の予定という意味)、迎賓館の本館を覗くかリヒター展に行くかを比較して後者を取った。

 リヒター展は全作品が撮影可能で(《ビルケナウ》の展示室にあるアウシュビッツの資料写真のみ複製不可)、もっと写真を撮っておいてもよかったかなと思ったが、その分自分の目で見たのでよしとする。あんまり写真を撮ってないので、都度ネットで画像検索してもらうといいと思います。

理解のためのうろ覚え構造図
 リヒター展は①で最初に目に入るのが「アブストラクト・ペインティング」の作品群で、早くもよく分からなくて笑った。よく分からないのでとりあえず眺めてみる。哲学書が分からないとかとは質的に異なる、理解のフレーム自体が存在しない分からなさなので、これに解釈を与えるのは無理だな、と思った。そもそも「アブストラクト・ペインティング」では個々の作品に名付けそのものが与えられてない。何がすごいのかもよく分からないし(リヒターという文脈を与えられずに提示されて、同じように観ていられるとは思えない)。というわけで、アブストラクト・ペインティングを眺めるのはその辺にして次のブースに行った。この時点では「対象」が無さすぎて意味不明だ、と思った。
 ②の部屋に入ると、最初に横10mの《ストリップ》(2013~2016)が目に入る。最初に見たとき「Netflixの起動画面じゃん」というので見解が一致して笑った。近くで観るとストライプの中にまたストライプが観えるので目眩がしてくる。こういうのは美術館の楽しさだな、と思った。不規則な色の反復構造って意味では整然と並べるか否かの差でアブストラクト・ペインティングとやってること一緒じゃんとおもった。《ストリップ》向かいの壁には《モーターボート(第1ヴァージョン)》があり、これは遠目で観るとピンボケした写真なのだけど、近くで(美術館の距離で)観ると絵画であることが分かる。この作品を観たときの「過去みたいだな」という印象が、結果的にはぼくがこの企画展でリヒターを観る基盤のようなものになった。
 ③の方に進むと《ルディ叔父さん》という作品がある。誰やねんという感じだがリヒターの親戚らしい。絵画ををあえてピントをずらして写真として複製したものらしいけど意図が分からんなと思った。写真が目の前の光景の切り取り、絵画が原理的には創造であることの中間を志向している? あるいはこうして、現実に存在したらしい「ルディ叔父さん」という存在がぼかされたひとつの絵として、人間の像を廃して(「誰やねん」と思われながら)見られること自体がリヒターの思惑かもしれないが。だとすれば上手に掌で踊らされている。奥に行くと《フィルム:フォルカー・ブラトケ》という今回唯一のフィルム作品が上映されていて、まあほとんどシルエットだけが分かるのみの映像なんだけど、進行するにつれて若干鮮明になっていくのがやっぱり過去みたいだと思った。面白いのは、「フォト・ペインティング」シリーズを見た瞬間に「写真のよう」と思うことで、リヒターが絵画としてぼかしやズレを加えることでぼくらは写真というメディアの方を想起している。ここまで計算しているんだろうか、しているんだろうな。さらに進むと「オイル・オン・フォト」というシリーズの展示になったんだけど、最初見たときGANの画像生成じゃんと思って笑ってしまった。
《ルディ叔父さん》とか「フォト・ペインティング」のそれと一貫して絵画↔︎写真の境界へ挑んでる感じで、これは歴史の引用がわかりやすいなと思った。「オイル・オン・フォト」シリーズはぼくには過去の文脈に見えて、フォト・ペインティングが過去(記憶?)をそのまま(過去のまま)描くこととすれば、オイル・オン・フォトは過去を芸術で代償するような作品だと思った。他には《アラジン》シリーズと、グラファイトで描いた一連の《ドローイング》シリーズがあったんだけど、後者はいまいち分からなかった。ドローイングはアブストラクト・ペインティングに比べて非人間的というか、卑近な例を挙げれば『少女終末旅行』的だったんだけど、あれも絵画そのものを思考する過程なのだろうか。でも震えた線は人間的だな。でもぶっちゃけラクガキと言われたらそう受け取る気がするな、これ。構図の抽象化という感じで、フォト・ペインティングからドローイングに向かうと、「見る」ことの様々なアスペクトを提示されているように感じる。だとすれば最初によく分からなかったアブストラクト・ペインティングは、ぼくらが心的イメージを光を束ねて構成していく過程そのものをメタ的に描いているように感じるなと思った(あるいは《ストリップ》も同様?)。

頭の倉庫から取り出した風景を、実際に見た風景に近づけるために言葉で再構築する。そのとき詩が生まれる。欠けた何かを補うための言葉、不鮮明な何かにピントを合わせ鮮明にするための言葉、それこそが詩だ。

まあこの辺はそのときに思ったというよりはMOMAT展の方で詩と絵画の関わりというテーマを観てたら上の引用文を思い出して得心したという感じなんだけど。オイル・オン・フォトが写真にとって明らかに異物でありながら作品として調和しているのは、やっぱり写真の欠落に目を向けているからじゃないかと思う。
 そんなこんなで少し戻って④に行った。④にはアブストラクト・ペインティングの他に《エラ》《花》《頭蓋骨》といった人物・静物画が多くて空気が一番落ち着いていた。本当にまさにただそこにあるだけ、という感じなのだけど、なら静物写真で良いのかというとそうでもなく、フォト・ペインティングの技法で絵画にすることで空間が生まれているなと感じた。写真はぼくらと地続きの世界に感じるけれど、これらはむしろ「写真らしさ」を強く意識して、切り取られた空間としてそこにあると感じさせられる。「切り取り」という性質を思うと、さっきはあんまり気にならなかった《8人の女性見習看護師》はそういう政治性を含んでいたのかな、と思った。あれはたしか雑誌のスナップであることが分かるようになってたと思うんだけど。《頭蓋骨》はかなり好きだったのであとでポストカードを買った。
 ④に入ると完全に今までの感覚が打ち砕かれた。

ええ……。何なんすかねこれ(芹沢あさひ)。リヒター展で最も具象的なのは間違いなくこいつ。脳内BGMは「モザイクカケラ」。
 言っちゃなんだけどこれめっちゃ没個性だよね。よく「ゲルニカは俺でも描ける」というのが(冗談混じりに)言われるけど、これこそ色をランダムに配置すればいいわけで、たとえば乱数生成に従って色を配置してそれをリヒターの名の下に展示すれば誰も違いが分からないと思う(リヒターにクイズ出したい)。まで考えて、ああレディメイドか、と思った。だとして、なんなのだろう。デュシャンの「思考する芸術」への当て付け? リヒターはデュシャンのように「絵画の中の意味」を考えさせる、そういう運動としての絵画は否定している、ような気がする。もっと根源的に(「網膜的」な?)見るという行為を記述しようとしていて、分かることはあまり重視していないのかなと思う。結局これに関してはよく分からない。Conwayのライフゲームみたいだなというのが率直な感想。
 ⑤は今回の目玉《ビルケナウ》。そろそろ思い出すのがつらくなってきた。⑤に行く前に①を通るのでアブストラクト・ペインティングをもう一度見たが、やっぱりオイル・オン・フォトの代償過程それ自体を記述してるように見えた。《ビルケナウ》は4枚の連作で、デカァァァァァいッ説明不要!! という感じでよかった。《ビルケナウ》というタイトルがなければアウシュビッツの絵だとは分からんよなこれ。名前もなく並べられたらたぶん抽象画のひとつだと思ってしまう。アウシュビッツという政治的・感情的に巨大すぎる主題そのものを扱うには、事実を淡々と表現する写真で十分だし、それが適している。多少の言葉は必要かもしれないが。それを画家が芸術の範疇に落とそうとするのは倫理感情の反発すら招くと思う。実際、資料写真も展示されているわけで、ホロコーストの「コト」を伝えたいのであれば資料写真のフォト・ペインティングでよかったはずなのだ。そうしなかったなら、そうしなかっただけの描くことがあったのだと思う(ここまで企画展を見ていて、リヒターがそうした倫理的問題、つまりどう観られるかという問題に意識的でないはずがないということは分かってきていたし)。資料写真は死体を焼く絵なのにどこかのどかで、受け取る印象と写真内の事実が全然違うなと思った。で、ああこれも「切り取り」の問題意識なのかなと思った。アウシュビッツを表現、芸術化することは、少なくともこの写真以上に表現することは、たぶんできない。でも事実的な記録はいつかその「意味」を失う。記憶はイメージを失った瞬間に「知識」に変容してしまう。だからアウシュビッツそのものの表現ではなく、イメージの束、光としての抽象画に仕上げたんじゃないか、と思った。そうすれば絶えず思考することが要求される(でも《カラーチャート》を見るとリヒター自身がいつかは時間に位置付けられ存在の消えた括弧付きの「リヒター」になっていくことに自覚的にも見えるので、その辺の弁証法もあるいは問題意識かもしれないけど)。名前を与えなければリヒターにしかそのイメージは読めず、名前を与えることで公共に変わるのが面白いな。ビルケナウの展示室は向かい合うように《ビルケナウ》そのものと写真ヴァージョンが置かれ、左手にグレーの鏡があった。だからぼくらはあの展示室に入ると自然に「《ビルケナウ》に並び、鑑賞する自分」を意識させられる。どこまで意図されたものか分からないが。《ビルケナウ》に使用されているのは、表層に見えるのは黒、グレー、赤、緑が多い。これらの色にぼくらが不安や恐怖を惹起させられるのはまさに歴史の引用であると思う。その下に塗り重ねられた色はぼくらには知るよしもない、つまりぼくらはあくまで表層の情報から何かを考え、咀嚼するしかない。これもひとつの「切り取り」作用であって、フォト・ペインティングに描かれた「文脈を切り離された人たち」と同種のものがあるなと思った。そういう二重性も問題意識としてあるんだろうか。
 まあその後はもう一度オイル・オン・フォトを観たり、アブストラクト・ペインティングを眺めたりして、気になる作品を巡って二人で自由行動してから企画展を出た。思ってたよりずっと楽しかった。最初に抽象画をお出しされて意味や内容を読み取ろうというすけべ心が挫かれたのが結果的にはよかったようで、かえって率直な感想を持ちながら色々と自分なりに考えられた。今回は現代アートというものをほぼ事前知識なしでどんくらい楽しめるかという部分にも主眼があったので、パンフレットも作品解説も読まず(おかげであやふやな記憶に基づいて書くことになったが!!)音声も無しで観たけど、会期は10月までらしいのでもう一度、今度は知識を受容しながら観てもいいかなと思う。
 というかぼくがこうやって曖昧な記憶に基づいて、印象に残ったものについて重視して語っているこの行為そのものが過去の代償行為だよね。やっぱりそれを描くのがオイル・オン・フォトで、代償の過程、つまり光を束ねていく過程のメタ描写がアブストラクト・ペインティングに感じるなあ。他には「目に見えるもの」と「描かれたもの」の隔絶と二重性、見ることを各レイヤーごとに記述するといった意図を感じた。
 リヒター展を出た後はMOMAT展の方に行って(企画展チケットで入れるのだ、お得!)、リヒターのトリックアートみたいな作品とか日本画とかを観た。騎龍観音、キャッチーで最高だと思う。「ぽえむの言い分」という展示がとてもよかった。詩画集なんかがあって、なるほど絵画と詩性、と思ってここでリヒターの上の解釈ができた感じ。西洋画を頑張って受容してる日本画、かわいいなと思った。美術館はかなり時間が潰せるな、ということを改めて実感した。


 非常に楽しい一日だった。バカみたいな分量になってしまった。