2022-07-14

 最近また忙しくなってきたので大変。

 今日も今日とて『重力と恩寵』を読み進める。ヴェイユは「恩寵」「真空」「悪の完全性」「注意力」といった核となる言葉にはちゃんと一貫した意味を持たせているんだけど、それ以外の言葉ではちょいちょいad hocな意味を持たせがちなので困る。一番は「十字架」というタームで、これが色んな意味に解釈できる使い方をされていて非常に分かりづらい。あと信仰の底が見えないのでもう少し分かるように書いてほしい(恐ろしいことにヴェイユはフランス思想家の中ではかなり「凡人にもわかるように」書いている方なんだけど)。まあその辺は冨原『ヴェーユ 人と思想』とか読んで補完すべきなんだろうな。
 ヴェイユ無神論に限りなく近いキリスト教を持っていることは前回までに読んだので、基本それに沿って読んでいく。我々の実存は神に実存を返すためにあり(転倒!)、われわれは「われわれであること」を放棄しなければならないのだった(これは死ではない。死はヴェイユにとって永遠に辿り着けない場所だから)

愛ゆえに存在するのをやめねばならない。

わたしは消滅するだけでよい。そうすれば、わたしが踏みしめる大地、わたしが潮騒を聴く海……と、神とのあいだには、完璧なる愛の合一(ユニオン)が存在するだろう。(p.81)

 さてヴェイユはこの論を進めて「神から命令を受け取る境地に達さねばならない」と言う。つまり〈われ〉の放棄である。ヴェイユがここで述べているのは倫理道徳まで含めたあらゆる行動規範を「神の命令」と同一視すること、信仰が命じる「必然」のみを行うようにすることだとだと思う。超越的な善の策定で、「神は善である」という宣言によって倫理が規定されている。先ほども言ったが、ヴェイユは「われわれであること」を放棄して神と世界との遮蔽幕としての役目を放棄することを「為すべきこと」としているので、行動規範においても「(われわれを通じて!)神が接触する」のだ。必然によって、受動性によって、行為する。

キリストのために隣人を助けるのではない。キリストによって助けるのだ。(p.89)

キリスト教に詳しくないのであれだが、この見解はどれくらい一般の信者に支持されるんだろうか。
 ここまで読むと「神の命令なんてどうやって知るの?」という疑問が湧いてくる。答えてみせよう。

神があることがらを命じているか否かを知ることは、定義からして、絶対にできない。(p.92)

デスヨネー。この辺は信仰なんで、「これは為さねばならぬと不確かさの翳りすらなく感じられることがら」みたいなことしか言われず、そんなもんあるんかい、という気持ちになる。がまあ、理屈抜きで「しなければならない」という衝動性が出てくることはあるよな。こういう理屈はもうちょい勉強しないと上手く見えてこない。ヴェイユはこうした「服従」の純粋でないものとして「重力への服従」について書いている。「謙遜とは、〈われ〉と呼ばれるもののうちに、おのれを上昇させるエネルギー源など存在しないと知ること」といった記述と重なる。ほんとうの服従は必然性に基づいた行為なので、なんらの上昇もない(ここでヴェイユの上昇/下降現象と平行なアナロジーが成立している)。


 バ先で生徒に取らせるノートの話になり、そもそも自分もノート書けないしなあ、とおもってぼくの周囲で話題になっていた『すべてはノートからはじまる』(倉下忠憲、星海社新書)を買って読んだ。なかなか面白く、生徒のノート以外にも、自分のnoteshelfの使い方やバ先の報告書の書き方などを見直すきっかけになった。この本では「ノート」を種々の「記録するもの」全般に広げ、「情報の記録・集積・アクセス」という観点でさしあたりのノートの役割を規定する。ノウハウの紹介以上にノウハウを使う理由付けをメインに記述しているところがASD的というか、ぼくのような人間には受容しやすかった。端的にいうとバイトでもなんでももっとログをいっぱい取ろうと思った。ぼくはノートを書くのが苦手なまま大学生になってしまったんだけど、学んだことの整理とか以上に、行動のログをとってちゃんと積み重ねるとか、そういう方にノートを使う気になった(生徒のノートも、内容を覚えるとか以前に講義がブツ切りの周一回の行動ではなく連続一貫したものだという認識を持ってもらうのに必要かな、と気分が変わった)。でも受験勉強において必要なのって間違えた問題と解法の抽象化と次回どう思いつくかというフィードバック(本書で言う「失敗のログ」「疑問の質と量を上げる」などの技術)だと思っているので、最終的にはそれを自力でできるようにさせるのがゴールかなあ。


シナモンのロルバーンコラボとジェットストリームを買った。




かわいい。