七月十五日

 ちょうど七月の真ん中なのでキリがいいですね。インターネット・辞世の句です。

 辞世の句を考えるという行為は自殺の延長になる、と思う。少なくともぼくは、辞世の句と言うからには繊細な言語で、かつ今際の際まで飄々としているような短歌を詠みたいと思うし、そうするためにはまだ言葉の欠片が足りないまだ死ねないと思う。
 前に自殺は哲学の実践という観点からは許容できないみたいなことを話していて、要するに自殺した瞬間に自殺に関する思索の放棄を意味してしまうと思っていた。もちろん行為自体を否定はしないし、そこに倫理的反論をつけるべくもないのだが。

 哲学を「この複雑な世界に分け入る斧」のように言う人がいるけれども、ぼくは哲学(をする)というのは火のようなもので、曖昧で見通しの悪い森のような世界に分け入る道具でもあり、かつ自分の身を今も今もこれからも焼いている、と思う。哲学に限らないけれども、学問的な病的なそういった知識というのは「やらなきゃいいのに引き摺られる」という点で役に立つの範疇を超えてくる。人間は「過去」についての考察などせずともビジネス新書を読んでおけば社会に適合できるのに、お気持ちで生きていれば楽なのに、哲学や理学をしてしまう。

 離れよう、と思ったのにさしたる理由はなく、きっかけと呼べそうなのは先日小説を読んでいるときにもっと自分の言葉を内面で溶かしておきたいと思ったことくらいである。言葉を大切に大切に内側で溶かしていれば、いつか言語で紡がれた蝶が現れると信じているからね。

 消える前にインターネット・墓標として積読リストでも置いておこうかと思ったが、リストアップが面倒でやめた。

 日記ぽいことを少し書いておくと、芳文社のセールでいくつか漫画を買った。それくらい……。

 そういうわけで(どういうわけで)ほんのちょっとの間ツイッターからはいなくなろうかな、と思う。ふらっと戻ることがあっても幽霊か何かを見たと思ってそっとしておいてね。