国語は教え得るか。

3/12: 深夜2時にコークハイ作ってヘロヘロしながら書いている。今後の修正や追記はここにログを残す。
3/12: 誤字脱字を修正。
3/15: 「追加の論考①」を追記
4/18: 「追加の論考②」, 「同③」を追記

前提

 発端はこのツイート
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先に断っておくが、ぼくの塾講師としての立場は基本「分からないのはこちらに非がある」である(当然だが)。なので以下の文章の目的は国語という科目に内在する(と現時点のぼくには感じられる)論点の整理であって、それ以外の目的は無い。

状況整理

生徒は小学生、学年は伏せるが学年相応の語彙力はなく、算数・国語の成績は公立小の平均近傍。
ぼくの指導科目は算数と国語。
所見としては言語能力が低く、「分かったことを言葉にする」ことが苦手で、文章題も不得手。記憶力には問題無し。

本論

思弁的な部分

 なんとなく強いタイトルで書いたが、問題意識としては「論理は教え得るか」がメインである。
 大きい問題意識の起点は次のツイートに集約されている:

つまり
・「論理的正しさ」は「論理」のプリインストールがないと究極的には説得力を持たない
・物語文では人物の行動と地の文を結びつけるものは存在しない

起点への注釈①

形式論理と日常における論理

まず一つ目のポイント〈「論理的正しさ」は「論理」のプリインストールがないと究極的には説得力を持たない〉について注釈しよう。我々は例えば、「雨が降っているなら地面が濡れている」という命題を論理的に〈正しい〉と認識できる*1形式論理学の主張「Aが真のとき〈AならばB〉は真」に代入してもこの〈正しさ〉は説明しえない。なぜなら順序が逆だからだ。我々の日常言語使用において構文「AならばB」の意味が斯様に理解されるから形式論理学の形式的な分析が成立するのであって、形式論理は先行しない。今の文章でも「A[だ]からB」という構文が出てきたが、この意味—AがBの原因を表す—が理解できるのは「我々の言語使用」このようになっているためである。これは社会契約的だと感じる。そしてぼくはなぜこの意味を理解できるのかが分からない、このとき論理が「プリインストールされていた」ような感覚を覚えるのだ。

「なぞなぞ」ロジック

Q.子供が欲しがる文具はクレヨンです。なぜでしょう?
A.欲しがる=「くれよ」=「くれよーん」=クレヨンだから

常識的に考えて破綻しているロジックだ。標準的な論理感覚において、この推論は「なぜクレヨンが答えなのか」を説明してはいない。「くれよ〜ん」という台詞と「クレヨン」の音が近いのは分かる。が、なぜだからといってクレヨンが答えなのか。この部分は依然としてブラックボックスだ。これがブラックボックスになるのは(ブラックボックスだと感じる理由は)、「なぞなぞ」内の論理、つまり「音が近いため答えになる」を内面化していないからだ。しかしまた、この構造は容易に反転する。「我々の論理がなぜ妥当なのか?」という逆向きの疑問があり得るのだ。ここで「なぜ我々の日常的な論理感覚が標準的なのか。その〈論理性〉は何に拠るのか」という問いが立ち現れる。「なぞなぞ」ロジックに感じた理不尽を、まさにぼくの論理感覚に対して感じる人間は存在し得る。「〇〇だから」文がなぜ理由を表すのか、ぼくは説明できない。そしてまた、この例から「論理を形式的に身に付ける」だけでは不十分なことも感じるだろう。「音が近いものが答えなのだ」というロジックが分かったとて、そこにある違和感は消えない。論理は身体化される必要がある。

Why be Moral?

 なぜ説明文を理解できるのか。それは説明文を理解する論理が組み込まれているからだ、とぼくは思う:

つまり大多数の論理が分かる人間が概ね正しいと認める読み方というのが存在して、それを形式的に分解して確かにロジックが回っていて、それでもそれを理解できるのは論理が既にインプットされている人間だけだと思うんですよね

 なぜ「国語に内在的」と言いながら生徒の学力情報をある程度提示したかに触れよう。国語においては、読解問題というレイヤーの一つ下で「我々が標準的な論理で振る舞う」ことが要求されている。ロジックにおけるMoralが要求されているのだ*2。生徒の「国語力の低さ」は、大抵の場合ここに起因する(前任の講師は「頭が悪い子」と言っていたが、そんなことはない)と思う。実際的には簡単な例からBe Moralを身体化させるべきなのだろう。Moralは教えられるのか。もっと言えば「教えられるとかられないとかの判断の対象なのか?」ということが、魚の小骨のように引っかかっている。どうやって身につけるのか、ぼくはまだ分からない。

起点への注釈②

②はメインの対象がいわゆる「物語文」であることは付言しておく。

描写と理解をつなぐロジック

 次の参考書の引用を見てもらおう。遠藤・渡辺『現代文解釈の基礎』(新訂版,ちくま学芸文庫,2021)pp.18-19からの引用である。

[例]彼はだらしない人間であった。
と書いてあれば、もう問題はないわけですけれども、全ての小説がこのように親切に主人公の性格を直接に語ってくれるとは限りません。そういう場合は、主人公の描かれた外面を通して内面をつかむより仕方がなくなります。
(中略)
[例]彼はいつも汚れたハンカチを持っていた。
と書いてあれば、それはそのとき限りのことではなくて平素のことであるがゆえに、彼が「だらしない人間」であったことを語るに十分です。
(中略)
[例]彼は四十の坂をこえて、ようやく係長に昇進した。
と書いてあれば、年齢の高さと地位の低さから推して、彼が「要領の悪い、才能に恵まれない、そして多分気の弱い性格である」と考えて、まず間違いないのです

さてこの説明、最後についてはいささか言い過ぎな感はあるが基本的には「概ね同意できる」というのが大多数の感想ではないかと思う。誤解してほしくないのは、ぼくがしたいのは何も『「年齢の高さ」は人によって違うんだからこれはおかしい』みたいなイチャモンではない。もっと根源的な部分、「なぜそういう推論を正しいと認識できるのか」にある。

標準的人間モデル

 精神科クリニックには「家族(患者)が自殺未遂したにも関わらずニコニコ笑顔で来院する同伴家族」がときたまいる。一般的な、少なくともそういう文脈が与えられてない限りにおいて、「家族が自殺未遂をしたら動揺する」のが一般的だ。この「一般的だ」の感覚を〈標準的人間モデル〉と勝手に呼んでいる。小説読解において、この標準的人間モデルは中心的な役割をはたす。なぜか。説明文における「標準的な論理感覚」と小説における「標準的人間モデル」は同様の働きをするからだ。標準的な人間の描像がないと、〈いつも汚れたハンカチを持っている→平素このような行動をしているのは「だらしない」→彼はだらしない人間である〉というロジックは理解できない。これは語彙の貧困とは質的に問題が違う:

(筆者註: 語彙が足りないからできないのではという意見に対し)
「できない」ことにだけ目を向けたらそうなんですが、辞書的な意味を把握しているとしてもそのことから導けることを理解するには既にそういうロジックの内側に居ないといけないだろうなという感覚です。

ここまでくると、「標準的な論理感覚は教えられるか」と「標準的人間モデルは教えられるか」は同型な疑問の構造になっているように感じる。フィールドが違うだけなのか。

「常識力」の問題?

 常識力というタームの定義次第ではあるが、ぼくは常識の問題だとは考えていない。むしろ「常識はなぜ常識たり得るか」という意味でこれはアンタッチャブルなのではないかとすら思っている。

なんでこんなこと考えてるの?

要領のよさと賢さ

 言わずもがなだが、国語でこんなことを考える人間は成績が伸びない。標準的な論理感覚と標準的人間モデルを了解して次に進む、そういう〈要領の良さ〉が国語の力を伸ばす秘訣である。そしてもちろん、ぼくの生徒もこんなまどろっこしいことは考えていない(と思う)。算数でも同じだ。分数の割り算で「なぜ逆にしてかけるのか」と立ち止まってしまう〈要領の悪さ〉は少なくとも一般的な環境では足枷になる。「$3\times5$はなぜ$35$ではなく$15$なのか?」と聞く生徒がいたら、多分教員もお手上げだろう。ちなみに大抵の場合、計算の間違いを修正することで生徒は前者のような誤った演算をしなくなる。これは計算規則という論理の身体化で、規則の正しさはブラックボックス化される*3。一種の「なぞなぞ」ロジックの成立である。それを大多数は納得しているし、また$3\times5=15$で間違いないのだが、それでも「$3\times5=35$が正しいという人間」は存在し得るし、それを説得する論理は無い。なぜなら説得する論理は計算規則の論理と等価だから。

指導に伴う思弁的/実際的な問題

 先に挙げた参考書の引用で、実は

(中略)それはそのとき限りのことではなくて平素のことであるがゆえに、彼が「だらしない人間」であったことを語るに十分です。

と「AゆえにB」という構文が使用されている。つまり「この構文は意味わかるよね」が暗黙で仮定されているのだ。他にも論理の本として野矢茂樹『論理トレーニング101題』(産業図書2001)があるが、この本ですら、我々の日常論理使用を前提にしている。論理の〈論理性〉は、語られず、まさに我々が論理を受け取れるということによって示されているのだ。
ぼくは国語の指導中にこういうことをふと思った。説明文にしても小説にしても、書かれている情報からの推論の正しさ、「問題文からの論理的な推論」の根底の論理は説明し得ないのだ。実際、出題者の〈論理〉が噛み合わないことは往々にしてある。豊富な事例は入不二基義『哲学の誤読』(ちくま新書,2007)に挙げられているためここでは譲るが、これは「標準的な論理感覚」にもズレがあることの証左ではないだろうか? 科目として成立しているのかこれ? という疑問すら持ってしまう。
 ちなみに実際的な話として、ぼくは国語の指導では段落ごとに〈要約メモ〉を作らせる訓練をさせている。実際に本を読むときも情報をある程度の区切りでパッケージしながら読むので、その訓練にもなるし、また要約メモを作る際は自然にロジックを動かさなければいけない。国語における論理の身体化訓練である。要約メモがあると設問にも答えやすいので、一石三鳥くらいある。

実際国語ってどうやって勉強すんの?

 こればっかりはようわからん*4。小説については小学生なら児童文学レーベル、特に小学館ジュニア文庫がとっつきやすいような気がする。ぶっちゃけ自分は小学生の頃図書室でポプラディアとかブリタニカとか眺めてたし語彙も問題ない(大抵の語彙なら辞書引くまでもなく知ってたので、多分問題ないとしていい)ので、国語ができないって感覚イマイチわかんないんだよね。

追加の論考①(3/15)

前置き

 3月14日にSYNODOSに掲載されたこんな寄稿を見つけた。2022年2月19日の早稲田大学教育学部一般入試国語の問題および解答について、問題文の著者本人の寄稿である。寄稿の目的は次のように書かれている。

受験生にとってできるかぎり公正な入試問題と解答を作成するとともに、疑義に答えることは、問題作成の役割を担う大学教員にとって、守るべき最低限の誠実さではないだろうか。そのため今回は、早稲田大学教育学部と著者のこれまでのメールでのやりとりを公開し、広く読者の判断を乞うとともに、大学側に誠実な対応を改めて求めたいと考える。

ぼくの記事の本旨はこうした国語問題の〈成立可能性〉に関わるもので、大学の出題意図や責任といった部分は厳密にはズレるのだが、関連する事例として引用させていただく。
 以下の文章および元記事を読む前に、まずは実際の問題文を読んで、現代文の試験だと思って読んでもらうと理解しやすいと思う。
一応文章を追うのに必要なレベルで適宜引用するが、Webメディアという形態の都合上元の記事がいつ消えるかも分からないので一度は読んでおくといいと思います。

出題者の誤読、著者の誤読

 元記事は「著者の意図が正しく読まれていない」ということを主張する記事ではない。「著者本人」であることはさして重要ではない。

(問一について)
(中略)フーコーの全体としての論調となると「ハ」が正答と著者としては言いたくなる。だが、問題文の範囲ではそれは書かれていないので、正答は三予備校の(当初の)解答どおり「ホ」と考える。

(中略)ずっと以前に丸谷才一という著者がやったような、国語問題全体への皮肉っぽい批判や、入試に使わないでほしいといった高慢な主張をするつもりはない。

それを踏まえた上で読んでいく。問題文を読んだ人には分かると思うが、普通に読めば正答は「ホ」だ。より正確に言うと、各選択肢の〈解釈の尤度〉を比較すると「ホ」が尤もらしいのだ。ポイントは問題文の次の部分

フーコーが問題としているのは)全体と個の利害を結びつけ、国家の力と個人の幸福とが相関して増大したり減少したりするようなしかたで両者を同時に生み出す、知と権力の構造である。

である。これが後段で「個と全体の近代特有の結合」と纏められているのは明らかだろう。「全体と個の利害を結びつけ」る、より具体的には「国家の力と個人の幸福とが相関して増大したり減少したりするようなしかたで両者を同時に生み出す」ことが「個と全体の近代特有の結合」だというのが妥当な解釈である。一方で記事にある

「イ」にある「前提」という単語は課題文には書かれていない。著者の意図としても「、」で結ばれる前半と後半(「全体と個の利害を結びつけ」と「国家の力と個人の幸福とが相関して増大したり減少したりするようなしかたで両者を同時に生み出す」)は、前提と結果ではなく並列あるいは言い換えによる説明である。

は明らかに著者側の「誤読」だ。あくまで恐らくだが、出題者はこの部分を「前提と結果」の関係で読んではいない。そもそも「結果」に対比されるのは「原因」であって「前提」ではないし、仮にも大学教授の人間がそんなウルトラC級の読み方をしているとはいくらなんでも考え難い。ここは出題者の読みをもっと詳しく分析するべき場所だ。

なぜ「ハ」も正解だと言いたくなるのか—〈部分から全体への推論〉

 衒学的な言い回しをすれば、(書かれた)言語は一本の線であり、一方で思想は平面の広がりと階層という高さの構造を持つ三次元の構造物であるため、読むという行為は一次元の部分から全体を復元する行為になる。我々は読み進める過程で予測=推論と解釈の修正作業を行うのだ。
 現代文という科目も同じである。問題文として(大抵は出典の文章の一部を切り取る形で)与えられた文章を読みながら解釈を完成させるのが現代文読解だ。今回の早稲田の問題文の範囲では「個と全体の近代特有の結合」については一般的な記述しかなされていないため、この問題文の範囲の推論では「ホ」が正解であり、「ハ」は不正解だ。恐らくだが、この後の文章や他の著作ではさらに「こうした個と全体の対等に見える結合においても、個の側は全体=国家の繁栄のために利用された(対等ではなかった)」という論旨が続くのだろう。そこまで読めば我々は「(実際には)全体>個」という力学だと読みを〈修正〉できる。「フーコーの全体としての論調となると「ハ」が正答と著者としては言いたくなる」のはそのためだろう。

誤読の構造—「イ」の尤度

 「ハ」も正解であると言いたくなるのはフーコーの論調を知っているからだとすれば、出題者も同じ構造によって「イ」を正解にしてしまったのではないかというのがこの節の主張である。
 出題者は恐らく、「個と全体の近代特有の結合」をもとに近代国家の働きかけが行われていた、と読んだのだ。発想と行為を分離して読んでいる。希死念慮があるからといって必ずしも自殺しないのと同じで、「個と全体の利害の結びつきを前提とする」発想を「近代特有の結合」とし、それに基づいて動くかどうかはまた別という考え方だ。
 この文章を出題するくらいだし、きっと出題者の中にはフーコーの思想をより詳しく知っている人間もいただろう。前節の
個と全体の利害が相関 → (実は)全体>個
という逆転現象を著者が読んでいたように、出題者も
個と全体の利害の結びつきが前提 → (実は)全体>個で結びついていない
という逆転を読んでいたのではないだろうか。著者が言うほど、この問題文の範囲で「イ」と「ハ」に尤度の差があるようには、ぼくには思えない。

誤読を判断できるのはなぜか。

正解はあるの?

 結局ここで問題になるのは「なぜ誤読だと言えるのか」である。言語の場合、〈正しさ〉の最終決定権は母語話者にある*5。一方でこれは(出題者も受験生もおそらくほぼ全員が日本語母語話者の)日本語の試験である。論理についてのネイティブはこの世に存在しない。このことが一層ややこしい問題を引き起こす。正しさの最終決定権を誰も持たないのだ。
 だが、我々は例えば「「ホ」が尤もらしく、「イ」は誤りだ」ということを判断できる。僕は先ほど「これが後段で「個と全体の近代特有の結合」と纏められているのは明らかだろう」と書いたが、なぜ明らかなのだろうか。推論のピースはある。例えば

  • 前段落の「近代」「個」「全体」といった語彙が共通している
  • 「特徴」→「特有」、「結びつけ」→「結合」と語彙的な連関がある

ことは分かるし、文章のルールとして

  • 記述は適宜まとめられ、散逸しない
  • 情報の流れに沿って記述するため、より後ろで説明されることは少ない

といった一般論があることも、まあ確かだ。そうであっても、この言い換えを厳密に、潔癖的に証明するのは難しいと思う。現に出題者は構造を見抜けず「誤読」(と、思われる読み方)をしている。しかしこれを誤読と断言することはできない。なぜなら現にそう読んだ人間がいるからだ。元の記事ではナイーブに「こう読み取れるのでこう」という説明をしているが、そう読める理由の完全な説明はできないはずだ。

普遍的同意

 虹の色は観点によっては非可算無限色であり、七色であり、例えば色覚異常者にとっては二色に見える*6こともある。が、大部分は四色〜八色くらいがコンセンサスの範囲だろう*7。色覚・視覚は先天的なもののため単純なアナロジーとはいかないが、「読み」についても〈解釈の揺れ〉と〈コンセンサス=普遍的同意〉がある。学習によってコンセンサスに至るスキルが獲得され、大抵「正しい」読みができるようになる。ちなみにこのステップに失敗するとインターネットで「文字の読めない人」「義務教育の敗北」と揶揄されてしまう*8
 普遍的同意は学習によって誰でも獲得できる機能なのだろうか。そもそも、普遍的同意は成立するのか。現代文は科目の特性上この普遍的同意の成立を前提にしているように思えるが、かなり無理筋だと思う。この点は記事で扱われている「国語入試問題の構造的な欠陥」の根本でもあると思う。
 無限に近い注釈を付けることで、ある程度解釈の幅を狭めて普遍的同意を得やすくすることはできるだろう。でもそんなのは現実的ではないし、解釈のズレを無くすための文章に解釈のズレが発生しうる以上、有限の紙幅で行うのは事実上不可能だ。

「読み」の論理化

 この論考のまとめとして、「読み」は言語化できないことを主張しておこう。記事の筆者は「解答の根拠」の説明責任が大学にあることを述べているが、説明されたとして、どうするべきなのだろう。「読み」をいくら説明しても説明しきれないロジックはある。
 仮に大学が説明責任として解答根拠を公開し、著者や各予備校がさらにそれについて大学と議論を重ね一定の「コンセンサス」が取れたところで、それはその範囲での同意でしかない。また別の読み方をする人間は発生しうる。それに対してまた議論するんだろうか。選択肢に答えが無いと主張する人間が発生したら、流石に手に負えないだろう。説明責任は、人が負うにはあまりに重いのではないだろうか。

Why be Moral? ふたたび

 哲学的(あえてそう言わせてもらう)には、結局どれだけロジックを尽くしても完全な根拠は内的に、そして相対的にしか語ることができない、というのがぼくの主張だ。これは変わらない。そして「なぜ普遍的同意を志向するべきなのか(そうではない読みもありうる中で、なぜ普遍的同意を仮定してそれを正解とするのか)」というWhy be Moralの変形も含まれている。記事の筆者はナイーブに大学側にMoralを求めているが、やはりそう簡単ではない。

〈論理ゲーム〉

 後期ヴィトゲンシュタインは、言語を慣習的に成立した=絶対的でないルールに基づく活動として捉え、これを〈言語ゲーム〉とした。僕の「論理」に対する考え方は、これになぞらえて〈論理ゲーム〉と呼ぶべきかもしれない。
 塾での仕事は、いわば入試現代文という〈論理ゲーム〉を身に付けさせる仕事なのだろう。だが、教える側のぼくですらこのゲームのルールを正確に把握できていないし、そんな基準で以って入試が成立するというのも思えない。この〈論理ゲーム〉が内側にいるとなぜか成立しているのも本当に不思議だ。

追加の論考②市川伸一『勉強法が変わる本』

 フォロワーが同著者の『勉強法の科学』を読んでて、こっちを思い出して読んだらpp.91-92に次のような指摘があった。少し長いが、丸ごと引用する。

文章理解に使われる知識とは,まず第1に語彙や文法などの言語的知識である.少しかたい文章を読むためには,それなりの難しい言葉を知っていなくてはならない.第2に,文章の内容に関わる知識で,いわゆる常識にあたるものから,政治,経済,科学,芸術など,さまざまな分野にわたる.説明的文章の読解にはこれが大きな役割を果たす.そして,第3に,感情や人間関係に関わる社会経験的な知識である.文学的な心情読み取りは,これが豊かでないとむずかしい.

2つ目までの要素はよく取り上げられる(特に受験英語では「教養」という言葉で表現されている。かつての駿台など)ものの、3つ目の論点を挙げているものはなかなか見たことがない。ちなみに、ほぼ同じ概念を「標準的人間モデル」という言葉でぼくは既に記述しているので、そちらも参照して欲しい(記事が膨大になってきたのでそろそろクロスリファレンスが欲しい)。
著者はこれらの知識をもとに「推論して筋の通った解釈をつくりあげる」と述べているが、ここはぼくと立場が違う。僕のこれまでの論からいえば、むしろこの(非体系的な)社会経験的知識が、小説内での内的なロジックとして正しさの根拠を規定している。これによって妥当な解釈を作るのではなく、これが分かることが解釈を正しいと直観することと等価なのだ。言語的知識も同じだ。ぼくの言語ゲーム観念から言えば、言語的知識に基づいて(それが先にあり)文章が分かるのではなく、文章が分かるということと言語的知識は等価なのだ。そういう意味で、本書の次の指摘には軽く絶望してしまう。

〔引用者注: 上に挙げたような知識の獲得は〕授業を聞いたり,参考書を読んだり,問題集をやったり,という勉強ではおよそ対処できない.

 むかし塾講師(責任者で、かなり偉い)とご飯を食べたときに「俺がいくら国語指導の技術を挙げて国語の受験指導を実践しても、普段から本読んでるやつの素の読解力には勝てない。受験指導は読書に適わない」と言っていて、当時はそうかなあ……くらいに思っていましたが、今思うと経験に裏打ちされた非常に優れた洞察だったのですね。

追加の論考③ 「客観的に読む」?

 元気にインターネットサーフィンしてたらこのような記事を見つけました。駿台で現代文を教えている中野芳樹という人のサイトです。問題意識が似ているので、引用しながら検討していきましょう。

出題・回答の構造

 まず当該記事では筆者(a)、出題者(b)、回答者(c)の三者の立場を設定しています。筆者aは伝えたいこと(主観a)を文字情報として誰からも自由に読まれるもの(客観a)として表現します。その後、出題者は客観aを解釈し、主観bを作り、その読み取った結果(主観b)を基に入試問題(客観b)を作成し、回答者は客観b(および課題文として客観a)を解釈して回答(主観c)を作成します。簡単にいえばこれが国語におけるa, b, c間の構造です。さて、国語問題が問題として成立するには主観a = 主観b という前提が成立していなければなりません。しかし「この「前提」の正当性は自明のことではない」と記事では指摘しています。これは本当にその通り。実際、この等式が成立していないと思われる例は入不二基義『哲学の誤読』で挙げられています[出典を追記]。ちなみに、同様の概念を追加の論考①内で「普遍的同意」として既に提示しているので、そちらも参照。
 次の指摘は非常に重要でしょう。

こうして見ると、「正しい読解」「正解」について、
主観a = 主観b = 主観c
という等式が成立可能であるという、極めて無理のありそうな前提が、素朴に広く了解事項とされているようです。
(中略)
この問題については、しばしば「客観的に読解する」とか「論理的に考える」とか「本文に従う」といった言葉が無反省に多用されています。

この記事はこの後「私の客観的速読法なら厳密に読解できる方法論が身に付きますよ!」というセールストークになってしまい、デカルトの『方法序説』を読んだときのような残念さを味わったのですが、それでも引用した部分は重要だと思うので残しておきます。
 ちなみに国語入試問題ではテクストの一部を切り出して使ってしまうので、状況的には客観a' (⊂ 客観a)を読んでいるに等しく、そもそも主観a = 客観a'という等式すら怪しいです。実際、前述の早稲田の出題はこの構造も孕んでいるでしょう。ぼくは上述の主観の等式が成立するという素朴な神話に加えて、逆に我々が何を根拠に「等式が成立していない」とみなすのか(なぜ自動的にみなせるのか)ということもまた、不思議なことだと思う。前掲の『勉強法が変わる本』もそうですが、なぜ「ロジック」感覚の重要性について触れた本が無いのでしょうか。やはり極めて大事でありながら全く指摘されていない気がします。

*1:ここで雨が降るという現象には水滴の落下現象が伴い、これによって地面は濡れている(濡れている地面が少なくとも領域として存在する)とする。実はこうして語の意味を了解できることも不思議なのだが、議論が混線するのでこれ以上は触れない

*2:まあ大抵の学力問題はモラルが要求されているので、わりと今更な話ではあるのだが。

*3:要検証

*4:要追記

*5:厳密にはこれも違う。言い方は悪いが、頭の悪いネイティブに学術英語の決定を任せるのは難しい。十分に信頼できるネイティブ複数人でコンセンサスを取るのが通常で、この意味ではやはり究極的な正しさは担保されない(それは潔癖というものだ)

*6:黄色と青など

*7:完全に余談だが、LGBTのレインボーフラッグは色覚異常者という多様性の排斥にならないのだろうか

*8:日本の識字率が高く、また幸運にも教育にありつけたおかげでできるだけのジョークなのだが、そういう構造への無頓着さがすごいと思う。無邪気というか、なんというか。