十月三日

 あまり書くこともないので書評を書いた。
 本を読むときにクソみたいにうだうだ考えを広げてしまう癖があるんですけど、そういうのを多分に含んでるので文量の割に内容は薄い。

書評コーナー

  • 『批評理論入門』(廣野由美子,中公新書

 本書はメアリ・シェリーによる文学作品『フランケンシュタイン』を題材に、文学技法/批評に関する入門的な解説を目標としている。理論に関する本を読んでみても「結局これは何をしたくて何を語っているの?」という印象が強かった、という経験は文学理論に限らずあるだろう。その点本書では『フランケンシュタイン』を一つの幹とし、種々の理論や批評を実際に『フランケンシュタイン』へ照射して見せることで、いわば「読みの実演」をしている。理論解説の"深さ"は他書へ譲り、代わりに理論を実際に活用する様を伝えるという姿勢は、入門としてとても優れているように思う(哲学の本では中島義道『哲学塾の風景』がこうした方法を取っている)。
 今回はこの本についてぼくなりの書評、というより思ったことやこれから参考にしようと思ったことなどを纏めるので、この日記を読んでいる人達は読んでない本について堂々と語れるようになるだろう(勿論、この日記から本書を読んでみたいと思ってくれたらなんか嬉しい)

小説技法篇
 本書はテクストそのものの技法を解説する「小説技法篇」と、文学批評の種類や歴史を概説する「批評理論篇」に分かれている。小説技法篇で興味深いのは「焦点化」「提示と叙述」「時間」「イメジャリー」「間テクスト性」の議論である。ぼくはさらに最初の三つと残りの二つを緩く括ることができると感じたので、主にその大別にしたがって各々の議論を纏める。

「焦点化」「提示と叙述」「時間」
 文学理論における「焦点化」は、元々は「視点」という言葉で曖昧に扱われていた概念を「誰が語って/見ているのか」という問題に切り分け、「見る」という行為の規定として導入された。ここで「焦点化」は、単なる視覚情報に限らない知覚や認知、いわば「意識」とも言うべき広い概念を指す。またテクストで焦点化を行っている人物を「焦点人物」と呼ぶ。すると我々は語りと焦点化を分割して議論できるようになる。焦点人物も語りも三人称の「全知の語り手」である場合や、語りは「全知の語り手」だが焦点人物は物語世界の中、と言う場合もある。特に面白い手法は「多元内的焦点化」と呼ばれるもので、これは物語の中の出来事を焦点人物を変えて繰り返し語ることで、出来事について様々な角度から情報を提示する、という手法である。思い返せば様々な小説や漫画で使われているのだが言語化により気付きを得たポイントである。この技法、主人公の知らない情報をこれで読者にだけ伝えて人物の動きにもどかしさやアイロニーを与えるのも可能になるし、信頼できない語り手を活用することもできるなど、単純ながらとても広がりのある技法だ。作品に縦方向の重層性を出す際に使われているよな、などと思った。
 「提示と叙述」は、本書によるとウェイン・ブースが導入した区分で、作品世界での出来事の記述の形式に関するものだ。「提示」とは字の如く、語り手の介入が少なく出来事をあるがままに記述すること。最も純粋な提示は(全知の語り手による外的焦点化の)登場人物の会話の記録である。「叙述」は全く逆、語り手が前面に現れ出来事や登場人物の心理を解説してしまうものだ。ぼくはこの節を読みながら、小説にはテンポがあって、それは細かい語の選択からプロットなど大域的なものまで様々な要素により決定されるけど、一番表層でこれを左右するのがこの「提示と叙述」なんじゃないかということを考えた。出来事を常に提示的に書けば余りにも冗長で反復も目障りなものになる。かといって全て叙述的に簡潔な説明にされては小説としての臨場感もない。提示と叙述は対等で、読み手に与える情報量の調節、ひいては作品の淀みある流れを作るのに有効に使えるのだと思う。
 「時間」の章を読んでいたら、「物語の速度」という項に「提示と叙述」でぼくが考えていたことが出てきた。ジェネットによる物語の速度の分類は「省略法」「要約法」「情景法」「休止法」の四つなのだが、いずれも提示と叙述の技法が使われている。個々の詳しい説明は省くが、面白いのは「休止法」でこれは語り手が物語の速度をゼロにして語り手の特権として情報を示す手法なのだが、これはかなり小説に固有といってもいい技法ではなかろうか。「提示と叙述」に広がりを感じる章である。
 以上は本書の小説技法篇でも特に純粋な技法の解説で、あまり意識的に言語化したことのない内容で興味深かった。それに比べると次の「イメジャリー」「間テクスト性」は同じ技法の中でも批評寄りの内容である。

「イメジャリー」「間テクスト性
 ある要素によって視覚的映像などが喚起される作用を「イメジャリー」という。イメジャリーには下位区分として「メタファー」、「象徴」、「アレゴリー」があるのだが具体的な説明は省く。本書では『フランケンシュタイン』で「月」や「水」といったイメジャリーがどのように使用されているのかを解説している。対象に対するそうした様々な(イメジャリーを引き起こす)意味を付与するのは人々の言語使用、特に文学などであるから、これは次に述べる「間テクスト性」にも関わってくるように思える。
 文学テクストと他の文学テクストの間の関係性を「間テクスト性」という。これは作品は常に先行する作品から影響を受けている、という発想に基づくツールで、作品に意識的/無意識的に吸収された他のテクストを読み取りまた元のテクストの解釈に逆照応するというふうに用いられる。本書では『フランケンシュタイン』で本文に言及されているミルトンの『失楽園』から、『フランケンシュタイン』が神・アダム・サタンの関係を複雑に変形させながら『失楽園』を多重に反響させていると分析しており、間テクスト性という道具の強さを見せつけられる。
 以上の二つは技法と批評の中間にある、というぼくの感覚はなんとなく伝わるだろうか。
 本書は常に技法の例を『フランケンシュタイン』から引いているため、実感を失わずに理論の概略が掴めるというのがいい。

批評理論篇
 「批評理論篇」では「ジャンル批評」や「フェミニズム批評」といった批評論を、『フランケンシュタイン』から実践を挙げながら紹介する。ぼくは作家をテクストから一歩引かせる方が(少なくとも「読み」の行為としては)適切だと考えているので、過度に社会的、作家論的に読みを広げる「精神分析批評」や「フェミニズム批評」、「マルクス主義批評」の姿勢を支持することはできないのだが、これらの中にも解釈のヒントとなる部分は感じられたし、また批評理論を概観するという意味ではやはり読んで損はない。個人的な白眉は「読者反応批評」と「文体論的批評」である。
 「読者反応批評」はテクストに積極的にコミットする(理想的な)読者の想定の上で「テクストが読者の心にどのように働きかけるか」ということに力点をおく批評方法である。ぼくはこの章を読みながら「アイドルマスター シャイニーカラーズ」というゲームを想起した。このゲームでぼくらはプロデューサーという形でアイドルと自分との物語にコミットさせられ、さらに偶然の左右するイベントや自身の選択肢により唯一のストーリーを構成させられる。小説ではないが小説に近いノベルゲーム性のあるシャニマスの考察には、読者反応批評がヒントになるのかもしれない。
 「文体論的批評」は読んで字の如くテクストを言語学的要素から読解する研究方法である。『ヘミングウェイで学ぶ英文法』の著者の一人倉林秀男さんは確かこの辺の領域を専門にしていた気がする。なるほど『ヘミングウェイで』で解釈のポイントとして提示されていた内容は文体論的批評に基づいていたのが多かったんだな、みたいなことを思った。正直な話、文体論的批評が今一番より勉強したい批評だと思う。

まとめ!
 総じて各項目の説明は決して詳しくはない。まえがきの「批評理論を知っているからといって、小説が読めるようにはならない。具体的な作品を抜きにして理論について語ることは、空しい。」という言葉が端的に示すように、本書の狙いは具体的な読みの実例を叩き台に技法と批評の両面から読みに必要な理論と直観について、そして小説とは何かという問題を削り出すことであるからだ。この狙いは(少なくともぼくのような文学について無知な人間に対しては)大成功しているといえるだろう。