九月四日〜九月八日

 四日から八日までの日記から抜粋するので、普段の日記もどきより日記らしく日常の思考などが出てる。

九月四日
 今日は心身の回復のために勉強に類することを何もしない日ということにした。気が付いたら水を4Lくらい飲んでいた。
 村上春樹の『一人称単数』を読み終えた。最初の二つは正直微妙だったが「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」と「ウィズ・ザ・ビートルズ」、「品川猿の告白」がとても良かった。「ウィズ・ザ・ビートルズ」はちょっと良すぎて気持ち悪くなる。思想的には「4月の」の系譜っぽいけど春樹が描きたいものをかなり詰め込んでいた。

九月五日
 遠出する機会も機運も出ないので、遠出しなきゃ買えないような本をポチってしまおうとS. Pinkerの”The Sense of Style”を買った。邦訳を待つという人もいるが、英語について(”The Elements of style”以上に)言語学認知科学的知見を援用しているわけだから、未読のぼくですら邦訳は至難の技であることは容易く想像できる。英語のスタイルブックは英語で読むべきだろう。
 ツイで読んだ評判しか知らないが面白そう。
 哲学に悪文が多いというのはぼくも認めるところである。J. S. Millなんて内容の巧拙に関わらず文として極めて悪文だ。ツイで評判を読んでたら、この本にGeoffrey K. Pullumの話が引用されている、というのを見てPullumに見覚えあるなと思ったらCamGELの著者の一人だった。
 実は明倫館にかなりガチめに欲しい本があるのだが、本当に行くタイミングが掴めず、このままだと「明倫館日和」という短篇が書けてしまう。
 三宅熱力学と清水本を(三宅メインで)追ってたら高校の熱力学がかなり見通しよくなってきたので楽しい。
 『今はじめる人のための短歌入門』に、どうにも短歌が上手くならない人達を観察すると、どうも自分より短歌が好きではないことが分かったという一節がありちょっと笑ってしまった。

九月七日(9/8追記)
 究極の人生逆転ファンタジー(585)

 マジでこれしか書いてなくて笑った(何これ?)

九月八日
 海外の「知性系」人間が人類史やエビデンスに基づいた啓蒙についてやたらと本を出す現象なんなのだろうか。Steven PinkerしかりJared DiamondしかりHans Roslingしかり。米国に進化生物学ブームが到来しているのか。
 Pinkerの”The Sense of Style”が届いた。Pinkerに関しては言語系以外の本はあまりアテになるものではないし内容にもことさら興味が無いのだが、言語に関してはまとも。いくらChomskyの弟子だからってムーブまで真似しなくて良いのにな。ところで洋書のペーパーバックを見るといつも日本の文庫本の質の高さに驚くのだが、なぜ洋書はああも紙が劣悪なんだ。物理書籍主義のきらいがあるので日本の出版業界には頑張ってほしいところである。
 先日、といっても結構前だが、哲学の講義のレポートを書いた。テーマは基本的に自由で、哲学教授の数学認識の雑さに腹を立てたぼくは数学に関して書いた。ここまではあらすじでどうでもいいのだが、最近この「数学について語る」行為の最中にぼくの感じた気持ち悪さが、ぼくに十年近く付き纏う「フェイク」の問題と地続きであることに気付いた。以下の文は、気持ち悪さを記憶してしまいがちなぼくの、細かい自己嫌悪を抱えないための清算行為と取ってもらえばいい。

 レポートを書いている間、もっと言えば数学を「外」から語る言葉を書く度に、下らない批評だ、という言葉が降って湧いた。「内側」、ここで言えば数学を第一にやっている側、から書かれていない語りは本当に空虚なのだ。創作を例にとれば、小説を書く側に居ない人間が小説について語ることがどれだけ空虚か、といえば分かりやすいだろう。ぼくにとってはそういった行為は全て「フェイク」に思えるのだ。もちろん無意味とは言わない。だがそれとは独立に、ぼくはこういう行為が内在的に抱える偽物さについて自覚的であれ、という主義を抱えている。
 言語によって対象を語る行為は、たしかに重要だし、またそれが内側から起こるものであれば尚のこと「理解」の過程で重要であることは言うまでもない。方法論を言葉にすればそれは一種の普遍性を纏うし、もっと具体的な例で言えば学問ではイメージを言葉(数式なども含む広義の「言葉」)に落とし込む能力が必要になる。そもそも我々の思考が(伝達可能な情報になるには)言語を必要とする点で明らかだ。
 心理学でいえば、勉強などが得意な人間が持つ感性を「方略的知識」というが(ざっくり)、それをスキーマ(ここでは手順とか典型とかの概念と思ってもらえればいい)として言語化することは方法として極めて有用である。
 要するに、学問に関してその内部から語ることは大いに推奨されるべきだし、数学の人間からそういった趣旨の本が出ることもぼくは良いことだと思う。
 だが学問を、それも哲学の俎上で「外」から語る行為が果たして「内」にどれだけの効用をもたらすか。なるほど学問は現代社会において浮世の地位には居られず、常に外からの視線に晒されている。それを客観的に捉えることは(サイエンスコミュニケーション等の観点から)学者に要求される能力だろう。だがそれは「外向き」の学問にしか効果を与えない。ましてや「外」の人間が、外からいくら形相を語ったところで本物の言葉にはならない。ぼくがここで言っているのはツイッターで翻訳すれば「エアプが雑言及するんじゃねえ」のより敵に回す範囲が広い話だ。G. H. Hardyは『ある数学者の生涯と弁明』の中で「解説、批評、鑑賞などは二流の人の仕事」だと述べている。ぼくは現代において学問の啓蒙活動は(それが第一ではないにしても)学者の義務であるように思っているし、ゆえにこの言葉を手放しに認めるつもりはないが、大意としてはこの気持ちがある。ぼくは「内側」で「本物に」なろうとしない限りはどんな言葉遊びもフェイクだと思うし、今書いているこの文章そのものがぼくがフェイクであることの証左になっている。そういう意味でこの違和感は語るという行為の偽物さに起因しているのだな、ということに気付いた。気持ち悪い。ちなみにレポートには「数学はなぜ哲学の問題にならないのか」ということを論じたのだが、上の「清算」と合わせてぼくの衒学雑言及と自分への嫌悪を推し量ってもらえたら幸いである。

(注釈)ぼくが「フェイク」とか「無能」とか語気の強い言葉を使っているときは基本的に自分に向けた言葉の自傷なので、これでぼく以外の個人を傷付ける意図がないことは断言しておく。もちろん自傷仲間が増えたら面白いので傷付いたら言ってほしいのだけれど。