二月二十三日

 なんか数学のお勉強ばかりしていた。懐かしの『代数・解析パーフェクトマスター』を引っ張り出して解いてた。昔より解けた。終わり。

 将来海外に行きたいのでそういうモチベーションで語学の勉強した方が良い方がしてきたので、そういう意識でやっていこうと思いました(小泉**郎構文)。

 なんか思ったより精神的に潰れてて本調子になれないのがちょっとつらい。ぼくにもまだ人間らしい感情があったんだなぁとふと我に返った殺人鬼のような感慨を持った。やっぱり人生の岐路があると違うなぁ。
 具体的に何がつらいかというと『生と愛の苦悩』が読めてないことなんですけどね。


パスカルは人間の不幸を「部屋で一人じっとしていられないこと」だと言ったが、今では部屋でじっとしていてもツイッターを開いてしまうのだから人間の業は深い。まぁそれが不幸なのは正しいけど素朴な感覚として美術館とか外でなきゃ行けないしね。なのでこの言葉のポイントは「一人」の方にあると解釈している。部屋でじっとしているのはそれを実現するための目的の用法が強いだろう。我々は一人になれない。社交を求め、自身の空虚を他人で埋めようとする。今更それをやめることなどできないのなら、そういうものだと割り切るしかないだろう。
 ぼくは結構喋り好きなので一人にはなれないかな。


 世の中(クソデカ形容)の人間、「殺人を容認しない法規にわたしが従わなきゃいけないことになる原理はなくないですか?」というような問いかけに対して「お前は人を殺したいのか‼️」といった斜め87.5°の予想だにしないアッパーカットを返してくるのでわりと怖い。当たり前の倫理観として人殺しがいけないということを容認した上で、じゃあそれby definitionで認めなきゃいけない論理はあるの? などを考えようという話なんだけども。異常者に対して免疫がないのはそういう議論を一切積まないで「普通の感覚」の一枚岩で全てを終わらせるからなのでは、という感じがする。


 結局ぼくは本当の愛とか運命の出会いとか世界の終わりとか夏休みの宝物とか倒れ込んだ雪とか僕たちが真に語るべき言葉とか、兎に角そういう素敵で素敵でたまらないものについて話し合っていたい。そういう感性を錆び付かせたくないし、それを下に見る価値観を享受しちゃうような甘っちょろさから決別していたい。
 そういう気持ち。