2022-07-22【リヒター展ネタバレ含む】

昔みたいにやろうよ、と僕は誘う。『精神疾患の診断と統計マニュアル』を開いて、僕の次のイカレ方を選ぼう。

チャック・パラニューク『サバイバー』)



 12:00過ぎ、JR四ツ谷駅に着いた。ぼくの家からだと一本遅れると30分ほど後になるので、仕方なく早めに向かい、アトレに入って本を読みながら待っていた。12:30に来た連絡が通知に出なかったのでちょっとトラブった。
「今ちょっとLINE壊れててぇ」
 その後は歩いて迎賓館に向かった。入口では手荷物のX線検査にボディーチェック、液体爆発物検査をして入った。ぼくはトロピカーナの鉄分? てやつを持ってたけど、残り少ないのでもうここで飲んでくださいと言われてしまった。
 大学生は迎賓館の庭に入るだけなら無料で嬉しい。
迎賓館、デカい。アフタヌーンティーてケーキばっかり出てくるのかと思ってたら上段がデザートで下二段はオードブルという感じだった。ぼくはド偏食でパプリカの類を食べないのだけど、ここで出てきた料理(クロワッサンのやつ)は美味しかった。
面白いのは中段のピラミッドみたいなやつで、カレー粉を潰したジャガイモに混ぜてる? ぽいやつ。すごい使い方だなと思った。カマンベールとオレンジを合わせるセンスもすごい。
 午前の雨を忘れたような、雲がゆったり流れていく快晴の下、非日常的な庭園でアフタヌーンティーをしている状況がかなりシュールで、ちょっとコントっぽいなと笑ってた。


 アフタヌーンティーを終えたあと、主庭の方をぶらつきながらこの後どこに行くかという話になり(注:人生論ではなく、その日の予定という意味)、迎賓館の本館を覗くかリヒター展に行くかを比較して後者を取った。

 リヒター展は全作品が撮影可能で(《ビルケナウ》の展示室にあるアウシュビッツの資料写真のみ複製不可)、もっと写真を撮っておいてもよかったかなと思ったが、その分自分の目で見たのでよしとする。あんまり写真を撮ってないので、都度ネットで画像検索してもらうといいと思います。

理解のためのうろ覚え構造図
 リヒター展は①で最初に目に入るのが「アブストラクト・ペインティング」の作品群で、早くもよく分からなくて笑った。よく分からないのでとりあえず眺めてみる。哲学書が分からないとかとは質的に異なる、理解のフレーム自体が存在しない分からなさなので、これに解釈を与えるのは無理だな、と思った。そもそも「アブストラクト・ペインティング」では個々の作品に名付けそのものが与えられてない。何がすごいのかもよく分からないし(リヒターという文脈を与えられずに提示されて、同じように観ていられるとは思えない)。というわけで、アブストラクト・ペインティングを眺めるのはその辺にして次のブースに行った。この時点では「対象」が無さすぎて意味不明だ、と思った。
 ②の部屋に入ると、最初に横10mの《ストリップ》(2013~2016)が目に入る。最初に見たとき「Netflixの起動画面じゃん」というので見解が一致して笑った。近くで観るとストライプの中にまたストライプが観えるので目眩がしてくる。こういうのは美術館の楽しさだな、と思った。不規則な色の反復構造って意味では整然と並べるか否かの差でアブストラクト・ペインティングとやってること一緒じゃんとおもった。《ストリップ》向かいの壁には《モーターボート(第1ヴァージョン)》があり、これは遠目で観るとピンボケした写真なのだけど、近くで(美術館の距離で)観ると絵画であることが分かる。この作品を観たときの「過去みたいだな」という印象が、結果的にはぼくがこの企画展でリヒターを観る基盤のようなものになった。
 ③の方に進むと《ルディ叔父さん》という作品がある。誰やねんという感じだがリヒターの親戚らしい。絵画ををあえてピントをずらして写真として複製したものらしいけど意図が分からんなと思った。写真が目の前の光景の切り取り、絵画が原理的には創造であることの中間を志向している? あるいはこうして、現実に存在したらしい「ルディ叔父さん」という存在がぼかされたひとつの絵として、人間の像を廃して(「誰やねん」と思われながら)見られること自体がリヒターの思惑かもしれないが。だとすれば上手に掌で踊らされている。奥に行くと《フィルム:フォルカー・ブラトケ》という今回唯一のフィルム作品が上映されていて、まあほとんどシルエットだけが分かるのみの映像なんだけど、進行するにつれて若干鮮明になっていくのがやっぱり過去みたいだと思った。面白いのは、「フォト・ペインティング」シリーズを見た瞬間に「写真のよう」と思うことで、リヒターが絵画としてぼかしやズレを加えることでぼくらは写真というメディアの方を想起している。ここまで計算しているんだろうか、しているんだろうな。さらに進むと「オイル・オン・フォト」というシリーズの展示になったんだけど、最初見たときGANの画像生成じゃんと思って笑ってしまった。
《ルディ叔父さん》とか「フォト・ペインティング」のそれと一貫して絵画↔︎写真の境界へ挑んでる感じで、これは歴史の引用がわかりやすいなと思った。「オイル・オン・フォト」シリーズはぼくには過去の文脈に見えて、フォト・ペインティングが過去(記憶?)をそのまま(過去のまま)描くこととすれば、オイル・オン・フォトは過去を芸術で代償するような作品だと思った。他には《アラジン》シリーズと、グラファイトで描いた一連の《ドローイング》シリーズがあったんだけど、後者はいまいち分からなかった。ドローイングはアブストラクト・ペインティングに比べて非人間的というか、卑近な例を挙げれば『少女終末旅行』的だったんだけど、あれも絵画そのものを思考する過程なのだろうか。でも震えた線は人間的だな。でもぶっちゃけラクガキと言われたらそう受け取る気がするな、これ。構図の抽象化という感じで、フォト・ペインティングからドローイングに向かうと、「見る」ことの様々なアスペクトを提示されているように感じる。だとすれば最初によく分からなかったアブストラクト・ペインティングは、ぼくらが心的イメージを光を束ねて構成していく過程そのものをメタ的に描いているように感じるなと思った(あるいは《ストリップ》も同様?)。

頭の倉庫から取り出した風景を、実際に見た風景に近づけるために言葉で再構築する。そのとき詩が生まれる。欠けた何かを補うための言葉、不鮮明な何かにピントを合わせ鮮明にするための言葉、それこそが詩だ。

まあこの辺はそのときに思ったというよりはMOMAT展の方で詩と絵画の関わりというテーマを観てたら上の引用文を思い出して得心したという感じなんだけど。オイル・オン・フォトが写真にとって明らかに異物でありながら作品として調和しているのは、やっぱり写真の欠落に目を向けているからじゃないかと思う。
 そんなこんなで少し戻って④に行った。④にはアブストラクト・ペインティングの他に《エラ》《花》《頭蓋骨》といった人物・静物画が多くて空気が一番落ち着いていた。本当にまさにただそこにあるだけ、という感じなのだけど、なら静物写真で良いのかというとそうでもなく、フォト・ペインティングの技法で絵画にすることで空間が生まれているなと感じた。写真はぼくらと地続きの世界に感じるけれど、これらはむしろ「写真らしさ」を強く意識して、切り取られた空間としてそこにあると感じさせられる。「切り取り」という性質を思うと、さっきはあんまり気にならなかった《8人の女性見習看護師》はそういう政治性を含んでいたのかな、と思った。あれはたしか雑誌のスナップであることが分かるようになってたと思うんだけど。《頭蓋骨》はかなり好きだったのであとでポストカードを買った。
 ④に入ると完全に今までの感覚が打ち砕かれた。

ええ……。何なんすかねこれ(芹沢あさひ)。リヒター展で最も具象的なのは間違いなくこいつ。脳内BGMは「モザイクカケラ」。
 言っちゃなんだけどこれめっちゃ没個性だよね。よく「ゲルニカは俺でも描ける」というのが(冗談混じりに)言われるけど、これこそ色をランダムに配置すればいいわけで、たとえば乱数生成に従って色を配置してそれをリヒターの名の下に展示すれば誰も違いが分からないと思う(リヒターにクイズ出したい)。まで考えて、ああレディメイドか、と思った。だとして、なんなのだろう。デュシャンの「思考する芸術」への当て付け? リヒターはデュシャンのように「絵画の中の意味」を考えさせる、そういう運動としての絵画は否定している、ような気がする。もっと根源的に(「網膜的」な?)見るという行為を記述しようとしていて、分かることはあまり重視していないのかなと思う。結局これに関してはよく分からない。Conwayのライフゲームみたいだなというのが率直な感想。
 ⑤は今回の目玉《ビルケナウ》。そろそろ思い出すのがつらくなってきた。⑤に行く前に①を通るのでアブストラクト・ペインティングをもう一度見たが、やっぱりオイル・オン・フォトの代償過程それ自体を記述してるように見えた。《ビルケナウ》は4枚の連作で、デカァァァァァいッ説明不要!! という感じでよかった。《ビルケナウ》というタイトルがなければアウシュビッツの絵だとは分からんよなこれ。名前もなく並べられたらたぶん抽象画のひとつだと思ってしまう。アウシュビッツという政治的・感情的に巨大すぎる主題そのものを扱うには、事実を淡々と表現する写真で十分だし、それが適している。多少の言葉は必要かもしれないが。それを画家が芸術の範疇に落とそうとするのは倫理感情の反発すら招くと思う。実際、資料写真も展示されているわけで、ホロコーストの「コト」を伝えたいのであれば資料写真のフォト・ペインティングでよかったはずなのだ。そうしなかったなら、そうしなかっただけの描くことがあったのだと思う(ここまで企画展を見ていて、リヒターがそうした倫理的問題、つまりどう観られるかという問題に意識的でないはずがないということは分かってきていたし)。資料写真は死体を焼く絵なのにどこかのどかで、受け取る印象と写真内の事実が全然違うなと思った。で、ああこれも「切り取り」の問題意識なのかなと思った。アウシュビッツを表現、芸術化することは、少なくともこの写真以上に表現することは、たぶんできない。でも事実的な記録はいつかその「意味」を失う。記憶はイメージを失った瞬間に「知識」に変容してしまう。だからアウシュビッツそのものの表現ではなく、イメージの束、光としての抽象画に仕上げたんじゃないか、と思った。そうすれば絶えず思考することが要求される(でも《カラーチャート》を見るとリヒター自身がいつかは時間に位置付けられ存在の消えた括弧付きの「リヒター」になっていくことに自覚的にも見えるので、その辺の弁証法もあるいは問題意識かもしれないけど)。名前を与えなければリヒターにしかそのイメージは読めず、名前を与えることで公共に変わるのが面白いな。ビルケナウの展示室は向かい合うように《ビルケナウ》そのものと写真ヴァージョンが置かれ、左手にグレーの鏡があった。だからぼくらはあの展示室に入ると自然に「《ビルケナウ》に並び、鑑賞する自分」を意識させられる。どこまで意図されたものか分からないが。《ビルケナウ》に使用されているのは、表層に見えるのは黒、グレー、赤、緑が多い。これらの色にぼくらが不安や恐怖を惹起させられるのはまさに歴史の引用であると思う。その下に塗り重ねられた色はぼくらには知るよしもない、つまりぼくらはあくまで表層の情報から何かを考え、咀嚼するしかない。これもひとつの「切り取り」作用であって、フォト・ペインティングに描かれた「文脈を切り離された人たち」と同種のものがあるなと思った。そういう二重性も問題意識としてあるんだろうか。
 まあその後はもう一度オイル・オン・フォトを観たり、アブストラクト・ペインティングを眺めたりして、気になる作品を巡って二人で自由行動してから企画展を出た。思ってたよりずっと楽しかった。最初に抽象画をお出しされて意味や内容を読み取ろうというすけべ心が挫かれたのが結果的にはよかったようで、かえって率直な感想を持ちながら色々と自分なりに考えられた。今回は現代アートというものをほぼ事前知識なしでどんくらい楽しめるかという部分にも主眼があったので、パンフレットも作品解説も読まず(おかげであやふやな記憶に基づいて書くことになったが!!)音声も無しで観たけど、会期は10月までらしいのでもう一度、今度は知識を受容しながら観てもいいかなと思う。
 というかぼくがこうやって曖昧な記憶に基づいて、印象に残ったものについて重視して語っているこの行為そのものが過去の代償行為だよね。やっぱりそれを描くのがオイル・オン・フォトで、代償の過程、つまり光を束ねていく過程のメタ描写がアブストラクト・ペインティングに感じるなあ。他には「目に見えるもの」と「描かれたもの」の隔絶と二重性、見ることを各レイヤーごとに記述するといった意図を感じた。
 リヒター展を出た後はMOMAT展の方に行って(企画展チケットで入れるのだ、お得!)、リヒターのトリックアートみたいな作品とか日本画とかを観た。騎龍観音、キャッチーで最高だと思う。「ぽえむの言い分」という展示がとてもよかった。詩画集なんかがあって、なるほど絵画と詩性、と思ってここでリヒターの上の解釈ができた感じ。西洋画を頑張って受容してる日本画、かわいいなと思った。美術館はかなり時間が潰せるな、ということを改めて実感した。


 非常に楽しい一日だった。バカみたいな分量になってしまった。

2022-07-16

「患者の数だけ病気の種類がある」という、一見もっともらしく聞こえる考え方は行き過ぎなのです。分類は分けすぎると役にたたなくなるのです
村井俊哉『はじめての精神医学』



 今日は短め。
 朝、今後しばらくは髪を切るタイミングがないことに気付いたので適当に自分で切った。そこそこ上手くいったので満足。散歩に出てしばらく本を読み、シャワーを浴びたりワイシャツにアイロンがけしたりしてバイトに行った。バイトでは二次方程式と二次関数を教えた。担当の生徒が月曜日に授業を振り替えしたので、授業の指示と出す宿題を印刷してメモ書きする無賃労働をし、途中に今度行く迎賓館のアフタヌーンティーの予約をした。定期テストから夏期講習までの期間を見越してカリキュラムを組むんだけど、結構夏期講習前にガンガン進んじゃってどうしようという気持ち。帰りにバイトの人とモンエナを買おうという話になり、「ぼく50円引き券2枚持ってるんで奢りますよ」と言ったら引かれてしまった(注:ついこの間までファミマではモンエナを1本買うと50円引き券がもらえる無限ループをしていた)。そんなこんなで帰ってきてインターネットを眺めたりしていまこれを書いています。日記は深夜2時まで起きて書くものではありません。みなさんも気をつけましょう。


 オタクのよく使う言い回しに「解像度」があります。御多分に漏れずわたしも解像度という言い回しが好きです。ぼくは勉強する理由は「世界の解像度を上げるため」だと思っています。解像度教です。「粒度」という言い回しもよく使います。
 世界の解像度を上げるのに一番有効なのは言葉を知ることです。言葉を知るだけで、世界で衝突する「なんかキモい物体」を意味体系の中で位置付けることができます。位置付けできた情報に対してなら対処ができます。ここまで書けばわかると思いますが、冒頭の引用の話です。分類というのは適切な数というある種の有限性があって意味を持ちます。無駄に指標を増やすのは世界の解像度の向上に繋がらないどころか、むしろノイズにすらなりうるのです。
 例えばある現状ではDSMやICDなどに登録されていない"症状"に対して、精神科医でもなんでもないよく分からん人間が「X」という名前を与えて大バズりしたとします。きっと「わたしもXなんだ」と言う人も出てきます。では「X」という言葉の導入で世界の解像度は上がったでしょうか。答えはNoです。まず第一にエビデンスが0です。エビデンスというのは客観性ではなく共通了解の基盤ですから、これを欠いた言葉は世界を描く素子としての信頼性が無いです。そして大抵において、「X」という「症状」は既に存在する(DSM, ICDにある)症状の線形和になります。この線形和の係数を探るのが診断という作業であり、それをゴチャッと「X」に纏めて世界の解像度が上がることはないです。ぺダンティックなアナロジーを使えば、これらの概念は世界の新しい基底になるだけのものを供えていないです。DSMは日々進化しています。必要とあれば知的能力障害の診断基準からIQテストの値を除外するなど大きな変更も加えています。もちろん現在の精神医学が掴めていない「症状」も、あるいは存在するかもしれませんが、それらの情報が十分に集まれば医学はそれに対してアプローチしますし、それが十分に症状として確認できれば登録するでしょう(最近ではICDのゲーム依存が有名)。たいていあなたが感じる「キャッチーな似非病名」は「不安」と「睡眠不足」と「うつ」と「先天の発達障害素因」の線形和です。気になるなら受診しましょう(受診の機会を削ぐという意味でもキャッチーエセ診断は有害です)。
 ちなみにわたしは自殺したときに精神科の受診歴があるとダサいという一点だけで受診してないです。


 ぼくは言語の謎を解明するのは生成文法でも認知言語学でもなく脳神経科学だと期待しているので、生物屋の人には頑張ってほしいなあと思います。生成文法認知言語学もおそらく粗い(が、神経科学に入り込まないレベルでは精度のいい)近似だと思いますが、知能というものが案外にシンプルな原理で動いていることに期待します。あるいは神経科学の先に神学があるかもしれません。それはそれで。

2022-07-14

 最近また忙しくなってきたので大変。

 今日も今日とて『重力と恩寵』を読み進める。ヴェイユは「恩寵」「真空」「悪の完全性」「注意力」といった核となる言葉にはちゃんと一貫した意味を持たせているんだけど、それ以外の言葉ではちょいちょいad hocな意味を持たせがちなので困る。一番は「十字架」というタームで、これが色んな意味に解釈できる使い方をされていて非常に分かりづらい。あと信仰の底が見えないのでもう少し分かるように書いてほしい(恐ろしいことにヴェイユはフランス思想家の中ではかなり「凡人にもわかるように」書いている方なんだけど)。まあその辺は冨原『ヴェーユ 人と思想』とか読んで補完すべきなんだろうな。
 ヴェイユ無神論に限りなく近いキリスト教を持っていることは前回までに読んだので、基本それに沿って読んでいく。我々の実存は神に実存を返すためにあり(転倒!)、われわれは「われわれであること」を放棄しなければならないのだった(これは死ではない。死はヴェイユにとって永遠に辿り着けない場所だから)

愛ゆえに存在するのをやめねばならない。

わたしは消滅するだけでよい。そうすれば、わたしが踏みしめる大地、わたしが潮騒を聴く海……と、神とのあいだには、完璧なる愛の合一(ユニオン)が存在するだろう。(p.81)

 さてヴェイユはこの論を進めて「神から命令を受け取る境地に達さねばならない」と言う。つまり〈われ〉の放棄である。ヴェイユがここで述べているのは倫理道徳まで含めたあらゆる行動規範を「神の命令」と同一視すること、信仰が命じる「必然」のみを行うようにすることだとだと思う。超越的な善の策定で、「神は善である」という宣言によって倫理が規定されている。先ほども言ったが、ヴェイユは「われわれであること」を放棄して神と世界との遮蔽幕としての役目を放棄することを「為すべきこと」としているので、行動規範においても「(われわれを通じて!)神が接触する」のだ。必然によって、受動性によって、行為する。

キリストのために隣人を助けるのではない。キリストによって助けるのだ。(p.89)

キリスト教に詳しくないのであれだが、この見解はどれくらい一般の信者に支持されるんだろうか。
 ここまで読むと「神の命令なんてどうやって知るの?」という疑問が湧いてくる。答えてみせよう。

神があることがらを命じているか否かを知ることは、定義からして、絶対にできない。(p.92)

デスヨネー。この辺は信仰なんで、「これは為さねばならぬと不確かさの翳りすらなく感じられることがら」みたいなことしか言われず、そんなもんあるんかい、という気持ちになる。がまあ、理屈抜きで「しなければならない」という衝動性が出てくることはあるよな。こういう理屈はもうちょい勉強しないと上手く見えてこない。ヴェイユはこうした「服従」の純粋でないものとして「重力への服従」について書いている。「謙遜とは、〈われ〉と呼ばれるもののうちに、おのれを上昇させるエネルギー源など存在しないと知ること」といった記述と重なる。ほんとうの服従は必然性に基づいた行為なので、なんらの上昇もない(ここでヴェイユの上昇/下降現象と平行なアナロジーが成立している)。


 バ先で生徒に取らせるノートの話になり、そもそも自分もノート書けないしなあ、とおもってぼくの周囲で話題になっていた『すべてはノートからはじまる』(倉下忠憲、星海社新書)を買って読んだ。なかなか面白く、生徒のノート以外にも、自分のnoteshelfの使い方やバ先の報告書の書き方などを見直すきっかけになった。この本では「ノート」を種々の「記録するもの」全般に広げ、「情報の記録・集積・アクセス」という観点でさしあたりのノートの役割を規定する。ノウハウの紹介以上にノウハウを使う理由付けをメインに記述しているところがASD的というか、ぼくのような人間には受容しやすかった。端的にいうとバイトでもなんでももっとログをいっぱい取ろうと思った。ぼくはノートを書くのが苦手なまま大学生になってしまったんだけど、学んだことの整理とか以上に、行動のログをとってちゃんと積み重ねるとか、そういう方にノートを使う気になった(生徒のノートも、内容を覚えるとか以前に講義がブツ切りの周一回の行動ではなく連続一貫したものだという認識を持ってもらうのに必要かな、と気分が変わった)。でも受験勉強において必要なのって間違えた問題と解法の抽象化と次回どう思いつくかというフィードバック(本書で言う「失敗のログ」「疑問の質と量を上げる」などの技術)だと思っているので、最終的にはそれを自力でできるようにさせるのがゴールかなあ。


シナモンのロルバーンコラボとジェットストリームを買った。




かわいい。

2022-07-08

ラクルな魔法少女になる杖は 新百合ヶ丘のKALDIにある
(上篠翔『エモーショナルきりん大全』)



 毎日モンエナで空腹を誤魔化し、バイトのあと深夜3時まで厭世して5時に起きて一限に出る生活をしていたら講義室に向かう途中で人と話しながらブッ倒れてしまった。睡眠不足と栄養失調だそうです。そりゃそうだ。
 みなさんちゃんとよく寝てよく食べてよく学びましょう。小学生レベルのことがまともにできん。でもこうやって適切なタイミングで変に頑張らずに壊れてくれるぼくの身体は優秀。


 昨日の余波で体調が優れなかったので今日のゼミはおやすみにした。
 最近はほぼ全ての時間を『重力と恩寵』か『カリ新大生』*1を読むのに使っているので日常リソースの配分が悪い。ひとところに熱中してしまうバランスの悪い性分なもので。
 今日は先輩から面白い話を聞いた。有限体$\mathbb{F}_q$(と同型な体)の乗法群$\mathbb{F}_q^{\times}=\mathbb{F}_q\setminus\{0\}$が有限巡回群になることの証明で、$G$を件の乗法群とすると$G$は有限Abel群なので、構造定理から
$$ G\cong \bigoplus_{i=1}^r \mathbb{Z}/a_i\mathbb{Z} $$
と書ける。いま$G$の元はすべて方程式$X^{a_r} - 1 =0$の根なので$|G|$は$a_r$で上から抑えられる。一方上の同型から
$$\prod_{i=1}^r a_i = |G| \leq a_r$$
となるので、$r=1$、$G\cong \mathbb{Z}/a\mathbb{Z}$と書け、巡回群となる。元を取ることなく進むので綺麗だと思いました。


 サンリオショップでシナモンくんのお薬手帳ケースが売ってたのですが、さすがにこれ使ったらクソキショメンヘラ異常成人男性だなあ……となりました(クソキショメンヘラ異常成人男性であることは別に間違ってないのですが……)あとあんまり病院に行かないというのもあります。最近親知らずが生えてきたので歯科にかかる予定はあるけど。ノートをデコるためのシールを買いました。
 バイトで二次方程式と二次関数を教えてました。教科書が二次方程式をやたらにパターン分けしてさも「それぞれに解き方がある」かのようにするのは統一原理を好む人間的には有害に映るのですが、教育的にはどうなんでしょうか。


 今日も今日とてヴェイユを読む。「われ(ジュ)」についての話なのだがよく分からない。つまりegoのことだと思うんだけど、egoを失った人間が犬猫のように他者の慈愛を受け入れるという現象は起きるのだろうか(ヴェイユの思う「〈われ〉を失う」という現象を掴みきれていない)。人間が捧げられるのは「〈われ〉と言う権利」だけらしいのだが、ヴェイユにおいて「神が人間に実存を与えるのは実存を通して神が神自身を愛すため」であることとパラレルだと思う。つまり神に与えられた実存を主張することのみが唯一われわれが所持していること、なのだと思うのだが。
 ヴェイユの〈われ〉はいわば「人が人として在る」という〈実存の感覚〉かもしれない。われわれはこの〈われ〉を「神に差し出す」ことによって「破壊しなければならない」のだが、一方でその破壊は「内的」に(信仰の実践として)行われなければならない。外的(ヴェイユの人生経験を踏まえれば工場の非人権的な肉体労働などか)要因によって〈われ〉を破壊されるのは信仰の形ではない。そのような外的破壊で、いわば〈われ〉を喪ってしまった人は「植物的〔ヴェイユのいう植物的とは、必要最低限の量を求めんとする態度〕な利己心」を持ち、「自身に注がれる愛になんの気兼ねも覚えない」ようになる(捧げる〈われ〉を喪ったのだから!) かなり見通しよく全ての記述が繋がったように思う。しかしこう読むとヴェイユの異常な敬虔が見えてくる。ヴェイユによれば、内的に(「神への愛ゆえに」)〈われ〉を失いながら、さらにそこに極限の不幸が降りかかることで「神の不在」という感覚が穿たれる。神の不在は「悪の完全性」をその人に理解させる。その人が今まで「地獄」だと感じていたものは「おのれの存在を声高に主張し、存在の幻想を与える虚無」だったのだ。この次元の地獄にあっては、地獄こそが存在を選ぶ理由になるという逆転現象が起きている。神の不在という感覚に穿たれた人は、地獄を超えた「悪の完全性」の中に神の現前を見るのだ。これが「死」を受容する感覚につながる。ここまで読んでやっと次の「脱—創造」へのつながりが分かった。ヴェイユは究極の不幸にこそ究極の信仰を見るガンギマリな敬虔なのですごい。

なぜなら神の不在とは、悪に呼応する神の現前の一様態——切実に感受された不在——だからだ。(心のなかに神をやどしたことのない者は、その不在を痛感することもない。)

ザ・キリスト教という感じの記述。



 ちくま新書から広瀬友紀『子どもに学ぶ言葉の認知科学』という本が7/7の新刊で出たそうです。著者の方が母校に来たときに講演を聞いたのですが、非常に面白かった記憶があります(当時は言語学にお熱だったのでいっぱい質問しました)。目次を見ると、ぼくが抱える問題意識と部分的に重なる部分もありそうなので、これは買いかな、と思いました。


 『カリ新大生』の誤植? ぽいところをまとめておきます。随時更新。

  • p.78 「もとの原子が別の元素」→「もとの元素が別の元素」
  • p.96の「Q:カルシウムイオン塩素と反応したときに作られるイオンは何か?」→ (1)「Q:カルシウム原子塩素原子と反応したときに作られるイオンは何か?」または(2)「Q:カルシウム原子塩素原子と反応したときに作られる化合物は何か?」

 これわかんなくて、直前の記述がこれ




なのでQもそれを踏まえていると考えると(1)がおそらく正しい改善です。一方Qの解答は



なので、この解答が成立するのは(2)です。解答が全然イオン形成の話してない。

*1:『カラー図解 アメリカ版 新・大学生物学の教科書』の略

2022-07-05,06

ぼくの事なんかひとつも知らないくせに
ぼくの事なんか明日は忘れるくせに
そのひとことが温かかった
ぼくの事なんかひとつも知らないくせに
BUMP OF CHICKEN「ベル」)



 メルカリで『英語の読み方・味わい方』を買った。良い本と聞いていたけど絶版で、偶然安かったので即決した。
 この本の第一部は上田勤の英文解釈本から取られているのだが、まえがきで「内容があまりにもまともであるがゆえか、絶版になってしまった」というようなことが書いてあり、それを惜しんで再録したこの本まで絶版にする人間、過ちを繰り返しすぎでは……となった。
 こんな本を買っているが、先月にも安井稔『納得のゆく英文解釈』を買って積んでいるのでそちらも読まないといけない。嗚呼、計画性!


 政治学の講義に出るだけ出て、ヴェイユの『重力と恩寵』を読み進める。重力が下降であり、低劣さは重力の一現象であるというのは分かるが、なぜ上昇運動である恩寵が「下降運動からなる法則」なのかよく分からない。恩寵は真空(ここではラフに「虚しさ」ととって差し支えない)を満たすものとされている。ヴェイユの言う重力とは人間を神から引き剥がし俗世へと結びつける概念だから、恩寵の作用は下降現象に対するものとしてしか現れず、この意味で「下降運動からなる法則」なのかもしれない、ととりあえず解釈しておいた。恩寵の二乗としての下降運動とは、おそらく重力と無関係に自由を得る(=信仰!)ということだろう。
 というところまで考えていたらペアワークが始まってしまったのでサクサク終わらせておいた。



 言語学の講義に出るだけ出て『カラー図解アメリカ版新・大学生物学の教科書 第1巻細胞生物学』を読み進める。書名が長い、書くだけで腱鞘炎になる。
 第1章が素晴らしく、それだけで買ってよかったと思った。図は本当に綺麗で楽しい。言語優位だと思ってたけど案外視覚優位なのかもしれない。
 海外の本はコラムや挿入される練習問題が面白い。教育的配慮のセンス抜群。
 言語学の方は既知の話がずっとなされている。名詞によって共起する動詞に制限があるというのはある程度わかるんだけど文学は容易くそれを超越してしまうところがあるよなと思った(「彼女を覆う退屈が溜息をついた」など)。「猫を吸う」とかもそうだけど、名詞のタイプがメタファー的な使用も含めどれだけ規定するかってのはかなり難しい問題だと思う(一応付言すると、これらの表現を話者が受容する以上、標準的な使用でないからと省くのは正当な態度ではない)。まあ本読みながらだからあんま聞いてないんだけど。
 日本語(一般に膠着語?)は単なる名詞と機能語を分離しやすいから《共起的な使用》というパースペクティブを持たれづらいという問題意識はよく分かる。本を読むときに使用している知識リソースは間違いなくそこだもんね(そうでなければ予測が不可能)。
 教授の雑談を聞き流したら講義終了。なんとも楽なお仕事です。


 昨日(05日)の夜、急にシナモロールが部屋にいてほしいという強烈な感情に支配されて調べていた。今年はシナモロール20周年なのでグッズがかなり手厚く、候補が色々あってうれしい。
 等身大シナモロールぬいぐるみはサイズがいい感じで本棚に起きたくなった。
 今月からシナモロール当りくじがコンビニ・サンリオショップで始まることをふと思い出したので大学のコンビニでシナモンのくじの入荷予定があるか質問する異常成人男性になった。ちなみに予定は無く、ただぼくが異常になっただけであった。
 どうしてぼくはシナモンくんになれないんだろう。

2022上半期ベスト【本】

 上半期に読んだ本で面白かったやつ五冊。

5位『現代整数論の風景 素数からゼータ関数まで』

 読みやすい○ 面白い○ 誤植が多い△
 ゼータ関数の記述が多いけど、ぼくの興味的に代数的整数論について書いてあるところが面白かった。ガウスの予想の照明で、一般化リーマン予想の肯定からも否定からもガウスの予想が証明できるのでガウスの予想は正しい、というので笑ってしまった。

4位『私たちはどう学んでいるのか 創発から見る認知の変化』

 類書で『教師の勝算』『勉強法が変わる本』なども読んだ。最近思うのは、学習というのは「既存の知識だけで説明できる事柄」を積み上げていく、というかたちではなく、その概念の「振る舞い」によって理解する、という面がやはりあるなあということ。ぼくらが数学を学んでて、あとになってふとある概念を「理解した」と思う瞬間があるのは、振る舞いを正しく分かったからのように思う。人間の人生のプロファイルを読むことと、実際に会うことの差に似ている。

3位『ブラック・ジャックの解釈学 内科医の視点』

 ブラック・ジャックの描写を現代医学から整理・再診断するもの。手塚治虫へのリスペクトに溢れており、極限まで作品の描写をもとに医学によって解体していくので非常に読み応えがある。当時まだ病名のない"症例"を高い精度で漫画に落とし込んでいたりするのはさすがマンガの神様と言うべきか。

2位『脳が読みたくなるストーリーの書き方』

 脳科学? はあんまり関係ないけど、読者というのは退屈なら作者に一切の忖度なく本を閉じる、ということをスタート地点に、いかなる物語なら読者は続きを読みたいと思うのかを論じている。この内容をもとに既存の物語をいろいろ観なおしてみると自分の中に物語に対する横軸がしっかり構築された、気がする。物語というのは(単純化すれば)主人公の内面的問題の更新と解決を原動力に進むのであり、プロット(できごと)はそれに付随するものでなければならない、あらゆるできごとは主人公の内面への作用で意味が決まる、といった指摘は、自分にはない洞察だった(たしかに〜〜〜と膝を叩いた)。

1位『ぬるめた』

 バカ面白い。シナリオ、構図、革新性どれも頭一つ抜けた現代4コマ漫画。どうでもよさそうな場面でキャラクターの矢印を強めに匂わせるの感情がバグるのでやめてほしい。さきながちあきの髪を切る回が好きです。

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 なんだかジャンルを分けて選んでもよかった気がしますが、順序付けというのは本来的に暴力なので、やると疲れちゃってもういいかなという気分になりました。2022後半戦は小説とかも入れてもっといっぱい本を読みたいです。大学生のときにもっと触れておけば、と後悔するもの四天王は本、映画、音楽、美味しいお酒なんだそうです(ぼく調べ)。もっといっぱい本を読んで、社会人という長い長い知的な冬眠に耐えたいとおもいます。

2022-07-04

「そうさ、ばかなのさ。だからこそ連中は、労働こそ最高のものなりと信じ込まされているんだ。そうすれば自分の頭で考えずにすむし、社会を進歩させて、仕事をしなくていいようにする必要もないからね。」
ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』)

 書かないとずっと書かない気がしてきたので無理にでも日記を書きます。明日早いので短め。

 最近しきりに「社会人になると本を読む時間が無い」という話をされるので、やっぱ高等遊民がイイカナーと思わずにはいられない。学生時代もあと少しですが、貯めておきたいですね読書経験。
 紙のことについて無益な言霊を吐き出せるのはきっと贅沢なんでしょうね。人は次第に擦り切れてしまう。

 高校の知人と『トップガン マーヴェリック』を観てきました。トップガン無印を正当に進化させた素晴らしい映画だったので、ぜひ無印を予習してから行きましょう。多分前作を知らなくても楽しめるけど「予習が効いてくる」映画だというのがぼくと知人の共通見解でした。ネタバレしたくないのでこれ以上は書きません。
 ぼくは高校の知人というと京都に行ってしまったKくんかこの知人Yさんくらいしか今でも連絡を取っている人がいないのですが、ぼくと映画に行くことを話すと、高校のとき非常にお世話になった先生や高校のときに関わった人がぼくが元気かどうかしきりに気にするようになった、と言われたので、高校のときのぼくをできるだけ透明な水槽に入れたままにしておいてください、という気持ちになりました。大抵においてぼくは帰巣本能が薄く、一度離れたコミュニティに戻る気が起きない社会不適合者なので、きっとこれらの人達ともう一度会うことはないのですが。
 ぼくが個人的に気に入っていた人達もICUで元気にしているそうなので、よかったです。
 映画を観る前に『重力と恩寵』を買ったりしました。あと映画観る前に時間があったので劇場の屋上で初めてバッティングセンターというやつをやりました。彼女もぼくもあまり打てなかったです。そのあとは彼女のサンダルを買うのに付き合ったりブラブラしてました。

 関係性に名詞をつけることというのがぼくはとても恐ろしく、起源は小学二年生のとき、ふと他人との関係性に「友達」と言うことが暴力的に感じられて、それ以来強迫的なまでにこの言葉が怖くなりました。これがぼくの中二病の始まりで、大学生になってもこの自意識を引き摺っています。いい加減気持ち悪いのですが。
 ぼくは根がクソメンヘラで、独占欲も強いということに最近気付かされましたが、関係の名詞化を嫌うのは表裏一体かもしれないです。
 でも「根本がクソメンヘラのくせに理性でどうこうするから余計面倒になってる」は事実陳列罪で訴えても良くないですか?