2022-0404-0410

0404

 8時に起きた。身体がだるかったので白湯とモンエナを入れた(健康と不健康が対消滅している)。今日から履修登録だったことを奇跡的に思い出したので学生ページに行ってとりあえず多分取らなきゃいけないだろう科目を埋めた(何を取るべきなのかよく分かっていない)。でも多分有界線形作用素の講義は取らなくていいはず? よく分かんない。幾何の講義でホモロジー論をやるのと平行で代数の講義で基礎的な群論を扱うレベル感もよく分からない。昨年度は完全に精神状態が悪化してわざわざ勉強を見てくれていた教授にも迷惑をかけてしまったので今年度はそういうのやらずに済ませたい。あと何故か教養科目の履修登録ができなかった。多分むこうのミスだけど、三日間しか登録期間設けてないくせにこういうミスをするなよ。お昼に知人とハンバーグを食べに行き、やはり満腹を抱えて小中高生に算数とか数学を教えるバイトに行った。ひとりとっても賢い小学生を担当して癒された。聡明なので雪ノ下雪乃になれそうだな〜と思っていたけど、愛嬌もユーモアもあるのでどちらかというと雪ノ下陽乃寄りだった。賢い子に教えるとこっちも健康になるので新しい健康促進として認定されてほしい。そんなこんなでバイトを終えて帰ってきて色々やって今だいたい23時です。
 明日もバイトですが遅い時間なので、昼間に本屋に行こうと思います。履修登録もやらないといけない(まず何を取るべきなのか調べます)。あとは塾長にシフト表を出すことですかね。ちなみに履修の関係上、水曜日と土曜日がバイトの日になりそうですが、ぶっちゃけ二日/週だと学費も何もかもしんどいのでちょっと困っています。

0405

 9時に起きた。面倒だったので本屋には行かず家で本を読んでいました(Paul Farmer, To Repair the World が届きました)。その後はお昼にカレーを食べてウダウダし、18時から中高生に数学を教えるバイトをしていました。帰ってきて久しぶりにちょっとインターネットを覗いて今は日記を書いています。備忘録ですが、ポーラ美術館で 「モネからリヒターへ」と題した展示があるようです。ポーラ美術館は行ったことがないのでその意味でも少し興味があります。箱根なのでちょっと遠いですね。
 今日は動きの少ない一日だったので日記の内容も少なめになってます。来週から大学が始まるので起床時間を早めにしたいです。

0406

 7時半に起きた。こんな時間からやっている店は少ないので、しばらくしてから本屋に行き、

の三冊を買ってきた。あと図書館で深谷賢治,『数学者の視点』(岩波書店)を借りました。結構面白かったです。「つまらないことをつまらないと思える感性」という表現を数学者のスノビズムと自嘲していましたが、一方で偽らざる本音なのだとも思います。日中はとても天気がよく桜も満開で、極めて爽快でした。暖かいというのは正義だとつくづく感じました。その後は英語の勉強をして、5時くらいに知人と温泉に行きました。なんだか娯楽にお金を使いすぎている感があるけど、もうすぐ新学期だから最後に加速してるってことで自分を赦します。女性の方がお風呂が長いらしいけど俺も長風呂やぞ! と謎マウントをとっていたら普通に知人の方が遅かったです。待ってる間、買ったばかりの酒井『平面代数曲線』を読みながら三次曲線の72通りの分類とか骨が折れるのにNewtonは凄いなあとか、多項式の割り算の存在と一意性を線形代数で示すの賢いなあと思ってたら30分くらいして知人と合流できました。ご飯を食べたり色々して、知人の家に行きました。その後のことを書いたら機密事項漏洩になるぞ♡と言われたので詳しくは書きませんが色々あって他人の家で日記を書いています。今だいたい1時です。
 明日は特に予定もないのでのんびりしようと思います。

0407

 7時30分に起きた。なんか今年から対面の講義が増えるらしく朝が早いので身体をそれに合わせないといけない。つらすぎる。その後はお昼過ぎくらいまで勉強して、まぜそばを食べ、その後はアニメ『夏目友人帳』をずっと観ていました。面白すぎる。変な過集中が発動して誰か俺を止めてくれと思いながらずっと観ていました。多軌透に魅了されていた小学生時代を思い出しました。あと木村良平ボイスの「主人公の横にいる親友ポジ」感はマジで唯一無二だとおもいました(『Angel Beats!』の印象が強すぎる)。『東のエデン』とかもそうですが、キャラクターが可愛くなりきらないけどしっかり魅力がある作画ってすごくいいですね。一話完結の形式のせいか、夏目友人帳は流れ志向が強く、それを作画が邪魔していないのが素晴らしいです。もう1期が14年前なのですが全く古くなく、クオリティが高いです。当時は気づけなかった魅力がいっぱいでした。
 北村先生が共著でアスクから出す単語帳が4月末に発売とのことで、まだ新刊情報にも載ってないな〜と思いながらもネットサーフィンしてたら、偶然にも書店向けの注文書を見つけてしまい、いろいろ情報がありました*1。眺めてたらめちゃくちゃ読みたくなりました。買う前にこれまでの単語帳の知識ブラッシュアップしないとな……。
 岡潔は日本的情緒の重要性を訴えていましたが、ぼくは小学生のとき『大神』というゲームを(それしか無かったので)めちゃくちゃ遊んでいたため、こと日本的情緒という観点では日本で五本の指に入ることを自負しています。神ゲーなのでみなさん遊んでみましょう。RTA in Japanの大神の動画もめっちゃ面白いです。
 今日は起きて勉強して夏目友人帳を観ただけなので雑談成分が多め。明日はバイトだしこれ書いてる今は1時だしで最悪なのでもう寝ます。おやすみなさい。

0408

 7時に起きた。最近よく目覚ましより前に起きるのですが何なのでしょうか……。今日は起きてから勉強をしたり本を読んだりしていましたが、あんまり集中力の来ない日だったので、だいたい12時にお昼を食べた後は16時のバイトまで夏目友人帳を観ていました。観ていて思い出したのですが、僕の好きな CV: 石田彰夏目友人帳の名取周一でした。やっぱりあんまり可愛くなりすぎない作画が可愛いと思います。見えるということは縁が持てるということです。夏目貴志には妖怪が「見え」ますが、妖怪達のスケールでは夏目貴志夏目レイコの違いは最初は「見え」ません。しかし縁を持つことを受け入れた夏目貴志は、妖怪達からも夏目貴志として「見える」ようになります。「見る」ことを中心としたこうしたテーマの螺旋が面白いなあと思います。縁の持ち方も人それぞれで、祓い屋のように見えながらも憎む人間もいれば、夏目レイコのように人も妖も嫌った人間もいます。「視線」と「縁」というテーマが一番交差しているのは多軌でしょうか。印を結ぶことで一時的に「見える」=「縁を結ぶ」存在になれる。夏目貴志は妖からも人からも「見られ」る存在ですが、多軌はまさに中間存在として夏目と関わっています。いつかこのテーマでまとめたいですね。夏目友人帳をひとしきり堪能した後は小中学生に国語と数学と英語を教えるバイトに行きました。英語が楽しかったです。数学はなんか基本的なことに対する誤解を修正する作業という感じだったのでコンテンツとしては正直そんなに面白いものではなかったです。
 明日もバイトです。頑張ります。シコシコお金を稼ぎます。

0409

 7時に起きた。シャワーを浴びて、やっぱりちょっと勉強した。最近は一週間が長い……。去年は抑うつ希死念慮を永遠にグルグルしていたので一週間の過ぎ去る速度が異常に早かった。週に一回のペースで数理論理学のゼミもやっていたけど、体感3日で回ってきていた。それくらい一週間が早かった。過去形で書いているけど今もたまになりそうになる。端で堪えている状態に近い。でも最近は上手くいっているので(因果が逆で、精神状態の良さからそうなっているのかもしれないが)さしあたり大丈夫そう。お昼に中華料理屋に行って坦々麺を食べた、めちゃくちゃ美味かった。味がいいので今後も行くと思う。店員さんが忙しなさを外に出さないので感心してしまった。ああいう風に振る舞いたい。その後は中学生に数学を教えるバイトをした。数学を分かってもらうのって難しいなあと思った。同じものを見ていても浮かんでくるもの(認知心理学でいうスキーマ)が違っていて、基本的にバイトでやることは中学生の貧弱なスキーマを補強する作業に他ならないのだが、ぼくはいまだに「問題に対して自分の考えていることを言語化する」以上の方法を知らない。基本的に勉強ができない子供は「作業の暗記」を行うので(ちなみによく分からないのだが、自分の記憶力が弱いと卑下しながらなぜ最も無駄に記憶リソースを消費する方法を選択するのだろうか)それも破壊しなきゃいけない。けど他人の担当生徒にそこまでやるのは時間が足りない。どうしたものか。勉強のやり方なんて俺が教えてほしい。
 明日はもうすぐ誕生日の知人へのプレゼントを買いに行ったり、意外と忙しい。

0410

 知人の方から「海に行こう」というお誘いが来たので突発的に三浦半島の先端みたいなところまで行ってフェリーに乗った。フェリーって初めてでした。酔わなかったのでよかったです。千葉の方でホタテを焼いたりサザエを焼いたりしました。サザエって初めてでしたが、あんなにほじくり出して食べるとは思いませんでした。あんな訳分からん生き物をほじくり出して食した先人に頭が上がりません。サーモンいくら丼というかなり生命への冒涜を感じるものも食べました。めちゃくちゃ美味しかったです。R.I.P. 魚介。そのあとは海で遊んだりしてから帰りました。
 明日から大学が始まってしまうので絶望しながら日記を書いています。

*1:アスク出版のページから普通に飛べるので特に言ってはいけないことでもない気がしますが、一応ここには載せないので各自で調べてください

2022-0328-0403




とのことです。意外。しょうもないブログですがこれからもなにとぞ。


 透明な理解は神への一歩です。ぼくが本を読む理由はこの神学に集約されるように思います。


 最近考えている国語の問題に関連して言語哲学をより知りたくなってきたのですが、ぼくはどこへ向かっているのでしょうか。『言語哲学大全』を読むべきですね。


 日記の形式をどうしようか悩んでいます。今のような「週記+雑文」スタイルを日記と呼ぶのは不適切な気がしますし、一日の振り返りをつけることを習慣づけたいです。一方でこういう書き散らしができないとぼくが面白くないです(?)。
 ちなみに今日(0402)はお昼に知人とイタリアンへ行きました。ウニのクリームパスタを大盛りで頼んだのですが、この大盛りが+200円でほぼ倍になって出てくるというかなりのボリュームで、ご存知の通り食の細いぼくにはかなりキツかったです。美味しかったので満足感は高いのですが、QoLの観点から言うと普通盛りの方が正しそうです。その後は満腹を抱えて中学生に数学を教えていました。あまり上手くできなかったです(基本的な計算すぎて、上手く言語化して伝えられなかったように思います)。数学科の人と最近の勉強とか大学院のこととか中学生の抽象的な思考能力とかについて話しながら帰ってきて、今23時くらいに日記を書いています。
 ぼくはスマホタブレットの両方ではてなブログを使っているのですが、今日(0403)起動したら昨日スマホで書いた分がまるごと消失していました。悲しい。なので当日書いた体で内容を復元したりしています。ちなみに今日は本屋に行って『平面代数曲線』を買う予定だったのですが、大雨が降っていたので特に出かけずに家で勉強してました。北村一真先生の単語帳が楽しみなのでその前にパス単の2級, 準1級を詰めています。英語は大事だという認識を新たにしたので頑張ります。夕飯は焼き鳥を食べました。R.I.P.鳥。明日もお昼に出かけて流れでバイトなので早く寝たほうが良いのですが今だいたい2時です。


 最近

実数$x,y,z>0$に対し
$$\frac{x}{\sqrt{x+y}}+ \frac{y}{\sqrt{y+z}} + \frac{z}{\sqrt{z+x}} \leq k\sqrt{x+y+z}$$
を満たすような最小の実数$k$を求めよ.
(不等式bot問題150番)

という問題を考えています。定数倍の変換$(x,y,z)\to (tx,ty,tz)$で不変なので、$f(x,y,z)=\sum_{\text{cyc}}\frac{x}{\sqrt{x+y}}$の$T=\{(x,y,z)|x+y+z=1,x>0,y>0,z>0\}$上での最大値を出せばいいかなと思いました。こっからが問題で、未定乗数法みたいにやると極値の候補が$\sqrt{3}/\sqrt{2}$になる($x=y=z=1/3$)のですが、$T$のかたち的にこれは最大値ではないです。例えば$(x,y,z)\to(3/4,1/4,0)$と動かすと$f\to 5/4$です。これは$z$を小さくしていった場合の最大値で($t-1+\sqrt{t}$の最大値を考える)、$\sqrt{3}/\sqrt{2}$より大きいです。ということで方針を
$$\frac{x}{\sqrt{x+y}}+ \frac{y}{\sqrt{y+z}} + \frac{z}{\sqrt{z+x}} \leq \frac{5}{4}\sqrt{x+y+z}$$
に変えてみたのですが、これも示せないです。こっちは成り立つと思うのですが……。
 この日記を読んだ方の知恵を貸していただけると嬉しいです。


 同性愛的な意味ではなく*1、ぼくには「女性として、背の高い女性にめちゃくちゃにされたい」という感情があるのですがあまり理解してもらえません。どれくらい昔からあるかハッキリとは思い出せませんが、少なくとも小学校高学年には(その時期に明示的に性を知っていたわけではありませんが)この方向性の感情があったと思います。女体化レズという二度手間ですが、こうとしか表現できないので仕方ありません。
 そもそもぼくは保育園くらいの頃から「美少女戦士セーラームーン」や「ふたりはプリキュア」といったアニメが好きで、特に敵の触手などに苦しめられるシーンを自己投影的に鑑賞するなど、今思うとちょっとばかりおかしい楽しみ方をしていました。親族に女性が多くぼくが最年少だった(近い親戚筋に絞っても、男4に女9で、ぼくは最小でも5は歳が離れていました)ため、あまり男性文化に触れない幼少期だったせいもあるかもしれません。ただ、ぼくの中には言語化されないけれども「女性になり、その上で自分より優位な女性に従いたい」という思想がずっと育っていました。
 これは何のカミングアウトなんでしょう? ぼくもよくわからない。


 池田岳『線形代数と表現論 線形代数続論』を買いました。5章から表現論で、4章まではある程度知っていましたがここから完全に知らない内容でした。例が多くて読みやすい印象があります。表現論って自分の興味とどう関わるのかな〜と思ってネットサーフィンしたところ、Galois表現というのがそれにあたるようです。


 ぼくは他人とのコミュニケーションが本当に苦手で、日々「苦手だなあ」という認識を新たにする作業に従事しています。こんなことを言うとなぜ塾講師なんてできているのかと言われるのですが、マジで結構死にそうな思いで他人とコミュニケーションを取っています(全然理解してもらえない)し、実際のところ塾講師はできていないです。カスすぎる。それでもこのバイトを選んでいるのは、コミュニケーション以外の認知負荷が少ないからです。ちょっと難しいのですが、死にそうなほど苦手なコミュニケーションも「全てが苦手なバイト」に比べれば相対的にマシなのです。ここでは不適合者の消去法が動いています。
 バイトのモチベのことを最近知人と話したのですが、ぼくは他人に数学【resp.英語, 理科, 倫理】を好きになってもらおうみたいな感情はないんですよね。むしろ「この程度のことに人生を阻害されないでほしい」という感情が強いです。困んなきゃいいんですよ別に。適応に問題がなければ障害として見なくていいのと同じです。
 塾講をしていて思うのは、優秀な生徒の親は優秀オーラがあるんですよね。会話を見ててもレスポンスの速さとか理解の正確さとか推論の広さとかで大体保護者の生育が見えてきて、そう言う親の子供は大概が成績が良い方に属してます。別に生徒の努力次第で乗り越えられるレベルの差ですけど、スタートラインに結構な差があるなあと思います。生まれがどうこうってより、塾という外部機関が無ければそういう格差の是正が絶望的に難しい学校制度そのものに対する絶望感がある。まあ塾に来ているだけで上澄みなんですけど。こういう構造を意識できない、学力を自分の知能の反映だと思ってるガキに勉強を教えるという欺瞞を受け入れている自分が嫌すぎて定期的に辞めたくなります。誰が悪いというわけでもないのですが。


 動物や赤ちゃんの行為を撮影した動画に他人がナレーションをつけるグロテスクな番組は、いわゆる「定型発達障害」によって受容されているんだなと思いました。定型発達は存在しない意図や文脈を過剰に読んで勝手に誤読が爆発するのでぼくは定型発達障害と呼んでいます。どう見ても動物が嫌がっている動画にすらナレーションを当てているのを見ると、存在しない物語の枠で解釈したがるんだなあと思います。発達障害が特性として学問に向いてるのはこういうのがプラスに働くからなんでしょうね。賢いと俯瞰で超越的な視座に立てるのでその辺の定型発達より上手くいきそうです。
 かつては血を厳選してオールラウンドにするガキ育成が流行りでしたが、最近は発達に偏りを持たせつつ特性を特性で相互にカバーするような発達ガキの方が上手く育ちそうです。なんか現代ベイブレードで片重心の楕円形・重量系が強くなったのと似てますね。医学部はちゃんと代々の血を継いで発達の素因を減らしたほうがハマるとは思いますが。


 塾という場所には、保護者からのお菓子がよく集まります。こういうのはつまり塾に対して「ちゃんと結果を出せ」とプレッシャーをかけているのだが*2、ぼくは基本これに手をつけないようにしている*3。なのだけど、今日はアンリ・シャルパンティエのフィナンシェがあったので珍しく手をつけた。
 フィナンシェで一番美味しいのはアンリ・シャルパンティエのものである。「アンリ」がアンリ・カルタンを連想させるのか、数学系の人間には「アンリ・シャルパンティエが一番おいしい」ことになぜかよく同意してもらえる。ちなみに次点でおいしいのはバターバトラーのものである。ただ、特徴で言えばアンリ・シャルパンティエ手塚国光、バターバトラーは越前リョーマなので、どっちが好きかに完全な正解は無いと言える。バターが好きならバターバトラーの方がおいしい。
 女性への贈り物はよくこれを選んでる。フィナンシェはハズレがないし、値段も手頃なので便利。ほかにもいくつかおいしい洋菓子の店を調べていて、贈答品ローテを組んでいる(悩まなくていいので楽。人間関係のメンテはなるべく自動化しよう!)
 ちなみにマカロンは神戸のグラモウディーズが一番おいしいと思う。地元の天才ケーキ屋のやつもおいしいが、スペシャリストには勝てない。また食べたいなあ。

*1:こういう但し書きはLGBTQ+的人間関係観が浸透したら解体される、あるいは不適切とみなされるのでしょうか。ただぼくの少ない語彙では現状これ以上に最適な表現がわかりません

*2:贈与論の枠組みで理解できないだろうか?

*3:特に理由は無い

2022-0321-0327

テキトーに書いてるのでごちゃっとしてます。


 飲みをした。中学のときの知人と、鳥で貴族な某お店。人と話すのは楽しい。基本的に人間関係をリセットしがちな悪癖人間のぼくにはかなり貴重な友人である。
 ぼくはそもそも胃袋が小さく小食な人間なので、お酒もあまり入らない。強い方ではあるけれど、みんながやるようなカクテルやらハイボールやらをドカドカ飲むのは構造的に難しいので、だいたい強いお酒をロックで頼んでちまちま飲む(余談だが、アルハラ気質な人間も初手で電気ブランのロックなどを頼むとあんまり目をつけてこない、オススメ)。鳥で貴族なお店はそういう風に都合よく飲めるものが無かったので珍しくカシオレやコークハイをよく頼んだのだが、やっぱり体に合わなかった。弱い酒を量で誤魔化すのは向かないっぽい。
 美味しい酒を開拓していきたいね。


 最近見る夢に、ある女の子と出会うものがある。ぼくはその子の名前も知らないし、正直なところ顔もよく覚えてない。髪型はショートかボブだったはずで、ぼくはロングが好きなのにな、と思ったのを記憶している。
 今日の夢は、季節が夏でもうズレてるんだけど、自転車に乗っているあの子と色々な場所へ行った。行き場所は地元と山梨と西武柳沢のちゃんぽんみたいな場所で、彼女を追いかけていった先についた学校は「東海学園女子」という場所だった。彼女の通っている高校なのだろう。一応起きてから調べてみたけど、東海学園女子なる高校は存在しなかった。俺は『君の名は。』的運命には恵まれていないらしい。
 然るにこれは俺にとっての青春のかさぶたなのかもしれない。綺麗な街路樹、夏、真っ赤な自販機、砂埃の舞う校庭、ゲームセンター、夢で彼女と歩いたあらゆる光景はすべて経験済みで、なのに、あらゆる光景が美化されすぎて眩しかった。俺の心は小学校低学年のときに従姉妹と観た『時をかける少女』に10年以上囚われたままだ。人間には「もはや作品の巧拙など抜きにして評価してしまう原点のような作品」というのがいくつかあって、時かけもそのひとつなのだ。低学年の脳を破壊したこと、許せないな。

『明日ちゃんのセーラー服』の話

 最近観たアニメは『明日ちゃんのセーラー服』です。ちなみに「あけびちゃん」と読む。これが結構(興味的な意味で)面白いので、いくつか書いていく。
 日常系なのでネタバレ? という感じだけどまだ観てなくて他人の感想に自分の鑑賞を侵食されたくない人は一応注意。

主人公の「非実在」感

 まず主人公「明日小路」は極めて情緒豊かで、明るく、楽観的、好奇心旺盛で賢い(舞台の私立蝋梅中は「塾に行かないと入れない」と作中で噂されるような学校で、そこに独学で入れる程度には賢い)。ぶっちゃけたことをいうと、明日小路には実在感が無い。より正確に言えば、アニメの非実在キャラにも普通ならあるはずの「この方向でもっとノイズを増やせば実在の人間に近くなる」感覚が無い。実際に観てもらえば分かると思うが、明日小路だけレイヤーが違うような感覚がある。

マジックリアリズム

 明日小路の「レイヤーの違い」はそれだけではない。タイトルからも分かる通り明日小路は学年で唯一のセーラー服で、クラスのアイドル的立ち位置として描かれる。他の生徒は極めて人間的で感情移入可能なのに、そこにコミットする明日ちゃんに実在を感じない。作者がここまで考えているかは分からないが、これはマジックリアリズムの構造になっている。ぼくがここまでに挙げた要素はマジックリアリズムの文法では全て非実在の記号として機能している。これはすごいことだ。そもそも「明日ちゃんのセーラー服」というタイトルで明日ちゃんが既にセーラー服を手にしていること、そのセーラー服がシナリオの駆動に関わってこないことが不思議だったのだが、記号という解釈ではこれらが不思議ではなくなる。
 漫画家というのはすごいもので、こうしたことを意識せずに描けてしまう。赤坂アカの「かぐや様」でも、白銀御行の運動音痴とワーカホリックがコメディタッチに描かれているが、これらは協調性運動障害と過集中で発達障害の符号だ。藤原千花の語学センスとコミュニケーションの無鉄砲さはASD傾向を示唆させる。定型発達だが他人に厳しい四宮にASDの藤原だけが近付いて、同様に発達障害を示唆する白銀・石上が生徒会に囲い込まれる。こういうのは知りすぎると却って自然に描けないもので、センスで埋めてしまう漫画家に脱帽する。
 ちなみに第2話で明日ちゃんが「空気が読めない」という描写が入って謎だったが、これは「小学校6年間を生徒1人の学校で過ごした」ことが理由だと表現された。これも凄い。明日ちゃんの非実在感にノイズが入らないようになっていた。

初見で感じた気持ち悪さ

 「明日ちゃん」がマジックリアリズムの構造なのは分かったが、このアニメ、それ以外に恐ろしいくらいフィクションの記号が排除されている。超常的な現象は何ひとつ起こらない、いわゆる「きらら的な日常系」のシナリオで作られているのに、作画が人物から背景に至るまで極めて写実的に描かれている(『ゆるキャン△』と比較すれば、本来のきらら日常系がいかにフィクションの記号に溢れているか分かる)。つまり視聴者はきらら的日常という非現実を写実的な文法で観せられるので、ここに認知的不協和が起きる。ここが非常に気持ち悪かったのだが、この感覚が逆に観続けるアンカーになった。


 国語、ないし現代文の「論理」は規則のパラドックスの構造があると思うのだが、ツイッターでパブサをかけても全然ヒットしない。


 『英文法総覧』を眺めていたらちょっとクスッとなる記述があったのでそのまま引用する:

可算名詞が不可算名詞化する,きわめて一般的な現象の一つに,「食物化」ということがある.どのような可算名詞によって表されるものでも,ひとたび,人間の口に入ると,そのとたんに,不可算名詞によって表されることになる.次の(1)と(2)を比べてみることにしよう.
(1) What I like is a monkey.
〈私の好きなのは猿です。〉
(2) What I like is monkey.
〈私の好きなのは猿の肉です。〉

現在完了のsince … agoについて【メモ】

前書き

 最近、英語を教えていて、「現在完了」の単元を扱った。そのときいわゆる「現在完了で明確な過去時点を表す副詞は使えない」というルールを教えたのだ。例えば
* I have been to Japan last year.
はlast yearが「明確な過去時点」のため非文だ*1。一方で
I have been learning English since I was a child.
では、(ぼくの感覚的には)I was a childだったのは明確な過去なのに、この文は適格と判断される。だが
*I have been learning English since two years ago.
はダメなのだ。実際のところこの辺の理屈がよく分かっていなかったので、帰ってきていろいろ文献を漁った。以下はそのメモである。

非常に重要な注意
書いているのは一介の英語学習者であり、またこの記事は調べたメモかつ多分に「筆者の考察」が含まれる。今後さらに内容を確認していくつもりはあるが、あくまで間違いの可能性もあると理解した上で読むべきものです。

本題

そもそも「現在完了」とは

 まず現在完了形がどう扱われているか。いくつか文法書を見た。

『英文法総覧』

よく参照する安井稔『英文法総覧』では

  1. 現在における動作の完了と結果
  2. 現在までの経験
  3. 現在までの状態の継続,動作の継続

を主な意味として挙げている。重要なのは次の指摘だろう

現在完了の表す意味の中核的な部分は,「過去において生じた事柄を現在に結びつける」という点にある.現在完了という語が示しているように,現在完了は現在時制の一種であり,その,いわば,視点はあくまで現在時にあり,そこから過去を見渡しているといったところがある.(『英文法総覧』p.285)

つまり「現在と過去の結びつき」に本質がある、という立場だ。

『現代英文法講義』

 次に、日本語の英文法書ではさしあたりかなり信頼できる安藤貞雄『現代英文法講義』の記述を見る。まずp.132の中で、

  • 現在完了形では出来事時(E)が発話時(S)=基準時(R)より前*2
  • 現在完了は「現在時制」と「完了相」が重なったもの
  • have[has] は過去分詞のなすVPを補部に持っている(目的語)

という三点が指摘されている。

三つ目はどういうことかというと、
He has [bought a new car].
という文において、助動詞(aux) haveは[bought a new car]を"持って"いて、従って彼(He)は「車を買う」を"持っている"(=経験した)という意味。
 中核的意味については安井と同様な指摘をpp.132-133で行っている。

(4) 現在完了の中核的意味
〈現在完了形は,過去の不定時に生じた出来事が,発話時と関わりがあるという話し手の認識を示す〉

これを一口で言えば,「現在との関連」(current relevance) ,あるいは「拡大された今」(extended now) と特徴づけてもよい.

とのことで、やはり「現在時制」で視点は今という解釈だ。他にも文法書にあたったが、これが最も詳しく、基本的には大同小異だったのでこれ以上は引用しない。

『An A-Z of Common English Errors』

 ネイティブの書いたもので、Dvid Barkerの『An A-Z of Common English Errors』も見た。現在完了を過去時制だとしている(p.259)が、これはその後の記述(p.260)で

  1. My father has visited a lot of country.(父はたくさんの国を訪れた)
  2. My grand father visited a lot of country.(祖父はたくさんの国を訪れた)

の二つの文の意味の違い(1では父が存命だが、2を聞いたネイティブは祖父は死んでいると判断する)を「時制の違いによる」と説明している部分で矛盾する。Barkerによれば現在完了形も過去形も「過去時制」だからだ。ここはむしろ現在完了が「現在時制」である説を補強する部分だろう。その後の記述を見ると著者は時制と相を誤解しているように思う(あるいはただの誤植)。
ただ、「2のような過去形では祖父は死んでいると判断される」は有益な情報だと思う。

まとめ

 結局、現在完了形は現在時制完了相で、発話時の今という視点から「不定時の関連した過去を見渡している」という風に捉えておくのが穏当だろう。

「明確な過去」と現在完了形の共起

 『現代英文法講義』を引いていたら、「明確な過去」を「過去の特定時」、そうでないものを「不定時」(実は引用で既に出ている)と呼んでいたので、以下はそれに倣うこととします。

非文法的な例①〈点的な過去〉yesterday, last ~, ~ agoなど

 さて、『現代英文法講義』では現在完了は不定時の出来事に対して用いられるので、過去の特定時とともに使用することはできないとされている。それはそうなのだが、なんとも狐につままれた気分だ。だがとりあえずこの説明で、
* I have saw Lucy yesterday.
の非文法性が説明できる。yesterday=特定時に起きた出来事に現在完了は使えず、上の文は単純過去I saw Lucy yesterday.で表現される。何が特定時かという判断は非常に難しいが、『英語monogrammar』p.156には「はっきりした点的な過去」という表現がある。以下に同書同ページからの引用を示す:

単純過去にのみ使われる副詞(句)
~ ago, once, yesterday, the other day, earlier this week, in those days, last ~, in 年(今年は除く), at 時刻, in the morning, on Tuesday, after the war, no longer, etc.

morningについては、『英文法総覧』p.286にI have written 5 letters this morning.は「午前中に言っているのであれば」文法的だという記述がある。in this morningは前置詞inによって「特定時」になってしまうのだろう。午後に言うと非文なのも、午後という基準時から見た「今朝」は特定時になってしまうからか。午前中であれば「今朝から続く時間のどこか(=不定時)に手紙を書き終えた」という意味で、完了形が適格になるといったところか。『現代英文法講義』pp.141-143によると、これらの語が現在完了形と共起できないのは「話し手の心理において発話時とのつながりを絶つと感じられる」からだそうだ。ということは、I have been learning English since I was a child.のsince I was a childは「成長」という現在へのつながりが感じられるために適格なのではなかろうか。とりあえず一つ納得できた気がする。

非文法的な例②since ~ ago

 since/forは「期間」の副詞として現在完了形の継続の意味とセットで用いられる*3
(状態的) We've lived in London since 1970.
(非完結的) I've taught in this school for ten years.
など。なお、副詞語句の共起が無い場合だと通例は〈存在〉(学校文法の〈経験〉)として読まれるそう。
 さてsinceは「過去のある時点」つまり起点から、現在あるいは過去の基準時までの〈継続〉を意味する。ここで
The rain has not stopped since last week.
は適格なので、前節で「単純過去にのみ使われる」と分類されていてもsinceを使えば共起できるようだ。ということは問題はagoの方にあるのかもしれない。
 と思って『現代英文法講義』p.545の「~ago」の項を見たらドンピシャだった。

… agoは,常に発話時を基準にして,「(今から)…前」という意味で,過去時制で用いられるのが原則である.

Swanの"Practical English Usage"(Third edition)には次のような記述がある。

An expression with ago refers to a finished time, and is normally used with a past tense(中略)

We use ago with a past tense and a time expression to 'count back' from the present; to say how long before now something happened.

これを見ると、~agoには強く「現在から数えて明確に終わった時間」の感覚があるのではないかとぼくは思う。つまり~ago句は「現在完了と共起するsinseが求める〈起点〉の要件を満たさない」のではないか。since ~ ago が非文法的(容認的?)と判断されるのはここに鍵があると思う。少なくともぼくはこれでかなりスッキリした。

さしあたってのまとめ
  • 現在完了形は過去の不定時の出来事の、現在までの関連を表す
  • 従って〈点的な過去〉は不定時ではなくなり、不適
  • しかし〈継続〉のsinceは〈起点〉から〈現在〉までの期間を表すので、since yesterdayやsince last yearなども可能
  • しかし~ago、たとえばtwo years agoなどは、〈過去の終わった時点〉の感覚が強く、sinceの〈起点〉になれないので不適

今後やること

  • 他の文献、たとえばCGELやCamGELなど、あるいは論文なども調べる(3/18日はとりあえず家にあるもので調べた)ことで内容を精査する
  • 記述の整理
  • ネイティブに聞く

参考文献

安井稔,『英文法総覧』
安藤貞雄,『現代英文法講義』
David Baker, 『An A-Z of Common English Errors (Japanese Edition)』
お茶の水ゼミナール英語科,『英語monogrammar vol.5 時制・相』
Michael Swan, Practical English Usage, third edition
綿貫陽/マーク・ピーターセン,『表現のための実践ロイヤル英文法』
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*1:ちなみに、非文法的(非適格)な文を非文と呼び、記号「*」をつけて表す

*2:出来事時(point of event)をE,発話時(point of speech)をS,基準時(point of reference)をRと書く.時制tenceはRとSの関係によって決まる。〈完了/非完了〉や〈進行/非進行〉といった動作や様態(E)が基準時(R)でどの状態かを示すのが相aspectであり、ざっくり言えば相はEとRの「関係」から決まる。以上の記述から分かる通り時制と相は異なる概念である。

*3:正確には、動詞が「状態的」あるいは「非完結的」な特徴を持つ場合は、現在完了形に〈継続〉という「読み(reading)」が与えられる。種々の用法があるのではなく、動詞によって現在完了形の中核的意味に種々の意味の「読み」が付与されるという視点を安藤は指摘している

国語は教え得るか。

3/12: 深夜2時にコークハイ作ってヘロヘロしながら書いている。今後の修正や追記はここにログを残す。
3/12: 誤字脱字を修正。
3/15: 「追加の論考①」を追記
4/18: 「追加の論考②」, 「同③」を追記

前提

 発端はこのツイート

先に断っておくが、ぼくの塾講師としての立場は基本「分からないのはこちらに非がある」である(当然だが)。なので以下の文章の目的は国語という科目に内在する(と現時点のぼくには感じられる)論点の整理であって、それ以外の目的は無い。

状況整理

生徒は小学生、学年は伏せるが学年相応の語彙力はなく、算数・国語の成績は公立小の平均近傍。
ぼくの指導科目は算数と国語。
所見としては言語能力が低く、「分かったことを言葉にする」ことが苦手で、文章題も不得手。記憶力には問題無し。

本論

思弁的な部分

 なんとなく強いタイトルで書いたが、問題意識としては「論理は教え得るか」がメインである。
 大きい問題意識の起点は次のツイートに集約されている:

つまり
・「論理的正しさ」は「論理」のプリインストールがないと究極的には説得力を持たない
・物語文では人物の行動と地の文を結びつけるものは存在しない

起点への注釈①

形式論理と日常における論理

まず一つ目のポイント〈「論理的正しさ」は「論理」のプリインストールがないと究極的には説得力を持たない〉について注釈しよう。我々は例えば、「雨が降っているなら地面が濡れている」という命題を論理的に〈正しい〉と認識できる*1形式論理学の主張「Aが真のとき〈AならばB〉は真」に代入してもこの〈正しさ〉は説明しえない。なぜなら順序が逆だからだ。我々の日常言語使用において構文「AならばB」の意味が斯様に理解されるから形式論理学の形式的な分析が成立するのであって、形式論理は先行しない。今の文章でも「A[だ]からB」という構文が出てきたが、この意味—AがBの原因を表す—が理解できるのは「我々の言語使用」このようになっているためである。これは社会契約的だと感じる。そしてぼくはなぜこの意味を理解できるのかが分からない、このとき論理が「プリインストールされていた」ような感覚を覚えるのだ。

「なぞなぞ」ロジック

Q.子供が欲しがる文具はクレヨンです。なぜでしょう?
A.欲しがる=「くれよ」=「くれよーん」=クレヨンだから

常識的に考えて破綻しているロジックだ。標準的な論理感覚において、この推論は「なぜクレヨンが答えなのか」を説明してはいない。「くれよ〜ん」という台詞と「クレヨン」の音が近いのは分かる。が、なぜだからといってクレヨンが答えなのか。この部分は依然としてブラックボックスだ。これがブラックボックスになるのは(ブラックボックスだと感じる理由は)、「なぞなぞ」内の論理、つまり「音が近いため答えになる」を内面化していないからだ。しかしまた、この構造は容易に反転する。「我々の論理がなぜ妥当なのか?」という逆向きの疑問があり得るのだ。ここで「なぜ我々の日常的な論理感覚が標準的なのか。その〈論理性〉は何に拠るのか」という問いが立ち現れる。「なぞなぞ」ロジックに感じた理不尽を、まさにぼくの論理感覚に対して感じる人間は存在し得る。「〇〇だから」文がなぜ理由を表すのか、ぼくは説明できない。そしてまた、この例から「論理を形式的に身に付ける」だけでは不十分なことも感じるだろう。「音が近いものが答えなのだ」というロジックが分かったとて、そこにある違和感は消えない。論理は身体化される必要がある。

Why be Moral?

 なぜ説明文を理解できるのか。それは説明文を理解する論理が組み込まれているからだ、とぼくは思う:

つまり大多数の論理が分かる人間が概ね正しいと認める読み方というのが存在して、それを形式的に分解して確かにロジックが回っていて、それでもそれを理解できるのは論理が既にインプットされている人間だけだと思うんですよね

 なぜ「国語に内在的」と言いながら生徒の学力情報をある程度提示したかに触れよう。国語においては、読解問題というレイヤーの一つ下で「我々が標準的な論理で振る舞う」ことが要求されている。ロジックにおけるMoralが要求されているのだ*2。生徒の「国語力の低さ」は、大抵の場合ここに起因する(前任の講師は「頭が悪い子」と言っていたが、そんなことはない)と思う。実際的には簡単な例からBe Moralを身体化させるべきなのだろう。Moralは教えられるのか。もっと言えば「教えられるとかられないとかの判断の対象なのか?」ということが、魚の小骨のように引っかかっている。どうやって身につけるのか、ぼくはまだ分からない。

起点への注釈②

②はメインの対象がいわゆる「物語文」であることは付言しておく。

描写と理解をつなぐロジック

 次の参考書の引用を見てもらおう。遠藤・渡辺『現代文解釈の基礎』(新訂版,ちくま学芸文庫,2021)pp.18-19からの引用である。

[例]彼はだらしない人間であった。
と書いてあれば、もう問題はないわけですけれども、全ての小説がこのように親切に主人公の性格を直接に語ってくれるとは限りません。そういう場合は、主人公の描かれた外面を通して内面をつかむより仕方がなくなります。
(中略)
[例]彼はいつも汚れたハンカチを持っていた。
と書いてあれば、それはそのとき限りのことではなくて平素のことであるがゆえに、彼が「だらしない人間」であったことを語るに十分です。
(中略)
[例]彼は四十の坂をこえて、ようやく係長に昇進した。
と書いてあれば、年齢の高さと地位の低さから推して、彼が「要領の悪い、才能に恵まれない、そして多分気の弱い性格である」と考えて、まず間違いないのです

さてこの説明、最後についてはいささか言い過ぎな感はあるが基本的には「概ね同意できる」というのが大多数の感想ではないかと思う。誤解してほしくないのは、ぼくがしたいのは何も『「年齢の高さ」は人によって違うんだからこれはおかしい』みたいなイチャモンではない。もっと根源的な部分、「なぜそういう推論を正しいと認識できるのか」にある。

標準的人間モデル

 精神科クリニックには「家族(患者)が自殺未遂したにも関わらずニコニコ笑顔で来院する同伴家族」がときたまいる。一般的な、少なくともそういう文脈が与えられてない限りにおいて、「家族が自殺未遂をしたら動揺する」のが一般的だ。この「一般的だ」の感覚を〈標準的人間モデル〉と勝手に呼んでいる。小説読解において、この標準的人間モデルは中心的な役割をはたす。なぜか。説明文における「標準的な論理感覚」と小説における「標準的人間モデル」は同様の働きをするからだ。標準的な人間の描像がないと、〈いつも汚れたハンカチを持っている→平素このような行動をしているのは「だらしない」→彼はだらしない人間である〉というロジックは理解できない。これは語彙の貧困とは質的に問題が違う:

(筆者註: 語彙が足りないからできないのではという意見に対し)
「できない」ことにだけ目を向けたらそうなんですが、辞書的な意味を把握しているとしてもそのことから導けることを理解するには既にそういうロジックの内側に居ないといけないだろうなという感覚です。

ここまでくると、「標準的な論理感覚は教えられるか」と「標準的人間モデルは教えられるか」は同型な疑問の構造になっているように感じる。フィールドが違うだけなのか。

「常識力」の問題?

 常識力というタームの定義次第ではあるが、ぼくは常識の問題だとは考えていない。むしろ「常識はなぜ常識たり得るか」という意味でこれはアンタッチャブルなのではないかとすら思っている。

なんでこんなこと考えてるの?

要領のよさと賢さ

 言わずもがなだが、国語でこんなことを考える人間は成績が伸びない。標準的な論理感覚と標準的人間モデルを了解して次に進む、そういう〈要領の良さ〉が国語の力を伸ばす秘訣である。そしてもちろん、ぼくの生徒もこんなまどろっこしいことは考えていない(と思う)。算数でも同じだ。分数の割り算で「なぜ逆にしてかけるのか」と立ち止まってしまう〈要領の悪さ〉は少なくとも一般的な環境では足枷になる。「$3\times5$はなぜ$35$ではなく$15$なのか?」と聞く生徒がいたら、多分教員もお手上げだろう。ちなみに大抵の場合、計算の間違いを修正することで生徒は前者のような誤った演算をしなくなる。これは計算規則という論理の身体化で、規則の正しさはブラックボックス化される*3。一種の「なぞなぞ」ロジックの成立である。それを大多数は納得しているし、また$3\times5=15$で間違いないのだが、それでも「$3\times5=35$が正しいという人間」は存在し得るし、それを説得する論理は無い。なぜなら説得する論理は計算規則の論理と等価だから。

指導に伴う思弁的/実際的な問題

 先に挙げた参考書の引用で、実は

(中略)それはそのとき限りのことではなくて平素のことであるがゆえに、彼が「だらしない人間」であったことを語るに十分です。

と「AゆえにB」という構文が使用されている。つまり「この構文は意味わかるよね」が暗黙で仮定されているのだ。他にも論理の本として野矢茂樹『論理トレーニング101題』(産業図書2001)があるが、この本ですら、我々の日常論理使用を前提にしている。論理の〈論理性〉は、語られず、まさに我々が論理を受け取れるということによって示されているのだ。
ぼくは国語の指導中にこういうことをふと思った。説明文にしても小説にしても、書かれている情報からの推論の正しさ、「問題文からの論理的な推論」の根底の論理は説明し得ないのだ。実際、出題者の〈論理〉が噛み合わないことは往々にしてある。豊富な事例は入不二基義『哲学の誤読』(ちくま新書,2007)に挙げられているためここでは譲るが、これは「標準的な論理感覚」にもズレがあることの証左ではないだろうか? 科目として成立しているのかこれ? という疑問すら持ってしまう。
 ちなみに実際的な話として、ぼくは国語の指導では段落ごとに〈要約メモ〉を作らせる訓練をさせている。実際に本を読むときも情報をある程度の区切りでパッケージしながら読むので、その訓練にもなるし、また要約メモを作る際は自然にロジックを動かさなければいけない。国語における論理の身体化訓練である。要約メモがあると設問にも答えやすいので、一石三鳥くらいある。

実際国語ってどうやって勉強すんの?

 こればっかりはようわからん*4。小説については小学生なら児童文学レーベル、特に小学館ジュニア文庫がとっつきやすいような気がする。ぶっちゃけ自分は小学生の頃図書室でポプラディアとかブリタニカとか眺めてたし語彙も問題ない(大抵の語彙なら辞書引くまでもなく知ってたので、多分問題ないとしていい)ので、国語ができないって感覚イマイチわかんないんだよね。

追加の論考①(3/15)

前置き

 3月14日にSYNODOSに掲載されたこんな寄稿を見つけた。2022年2月19日の早稲田大学教育学部一般入試国語の問題および解答について、問題文の著者本人の寄稿である。寄稿の目的は次のように書かれている。

受験生にとってできるかぎり公正な入試問題と解答を作成するとともに、疑義に答えることは、問題作成の役割を担う大学教員にとって、守るべき最低限の誠実さではないだろうか。そのため今回は、早稲田大学教育学部と著者のこれまでのメールでのやりとりを公開し、広く読者の判断を乞うとともに、大学側に誠実な対応を改めて求めたいと考える。

ぼくの記事の本旨はこうした国語問題の〈成立可能性〉に関わるもので、大学の出題意図や責任といった部分は厳密にはズレるのだが、関連する事例として引用させていただく。
 以下の文章および元記事を読む前に、まずは実際の問題文を読んで、現代文の試験だと思って読んでもらうと理解しやすいと思う。
一応文章を追うのに必要なレベルで適宜引用するが、Webメディアという形態の都合上元の記事がいつ消えるかも分からないので一度は読んでおくといいと思います。

出題者の誤読、著者の誤読

 元記事は「著者の意図が正しく読まれていない」ということを主張する記事ではない。「著者本人」であることはさして重要ではない。

(問一について)
(中略)フーコーの全体としての論調となると「ハ」が正答と著者としては言いたくなる。だが、問題文の範囲ではそれは書かれていないので、正答は三予備校の(当初の)解答どおり「ホ」と考える。

(中略)ずっと以前に丸谷才一という著者がやったような、国語問題全体への皮肉っぽい批判や、入試に使わないでほしいといった高慢な主張をするつもりはない。

それを踏まえた上で読んでいく。問題文を読んだ人には分かると思うが、普通に読めば正答は「ホ」だ。より正確に言うと、各選択肢の〈解釈の尤度〉を比較すると「ホ」が尤もらしいのだ。ポイントは問題文の次の部分

フーコーが問題としているのは)全体と個の利害を結びつけ、国家の力と個人の幸福とが相関して増大したり減少したりするようなしかたで両者を同時に生み出す、知と権力の構造である。

である。これが後段で「個と全体の近代特有の結合」と纏められているのは明らかだろう。「全体と個の利害を結びつけ」る、より具体的には「国家の力と個人の幸福とが相関して増大したり減少したりするようなしかたで両者を同時に生み出す」ことが「個と全体の近代特有の結合」だというのが妥当な解釈である。一方で記事にある

「イ」にある「前提」という単語は課題文には書かれていない。著者の意図としても「、」で結ばれる前半と後半(「全体と個の利害を結びつけ」と「国家の力と個人の幸福とが相関して増大したり減少したりするようなしかたで両者を同時に生み出す」)は、前提と結果ではなく並列あるいは言い換えによる説明である。

は明らかに著者側の「誤読」だ。あくまで恐らくだが、出題者はこの部分を「前提と結果」の関係で読んではいない。そもそも「結果」に対比されるのは「原因」であって「前提」ではないし、仮にも大学教授の人間がそんなウルトラC級の読み方をしているとはいくらなんでも考え難い。ここは出題者の読みをもっと詳しく分析するべき場所だ。

なぜ「ハ」も正解だと言いたくなるのか—〈部分から全体への推論〉

 衒学的な言い回しをすれば、(書かれた)言語は一本の線であり、一方で思想は平面の広がりと階層という高さの構造を持つ三次元の構造物であるため、読むという行為は一次元の部分から全体を復元する行為になる。我々は読み進める過程で予測=推論と解釈の修正作業を行うのだ。
 現代文という科目も同じである。問題文として(大抵は出典の文章の一部を切り取る形で)与えられた文章を読みながら解釈を完成させるのが現代文読解だ。今回の早稲田の問題文の範囲では「個と全体の近代特有の結合」については一般的な記述しかなされていないため、この問題文の範囲の推論では「ホ」が正解であり、「ハ」は不正解だ。恐らくだが、この後の文章や他の著作ではさらに「こうした個と全体の対等に見える結合においても、個の側は全体=国家の繁栄のために利用された(対等ではなかった)」という論旨が続くのだろう。そこまで読めば我々は「(実際には)全体>個」という力学だと読みを〈修正〉できる。「フーコーの全体としての論調となると「ハ」が正答と著者としては言いたくなる」のはそのためだろう。

誤読の構造—「イ」の尤度

 「ハ」も正解であると言いたくなるのはフーコーの論調を知っているからだとすれば、出題者も同じ構造によって「イ」を正解にしてしまったのではないかというのがこの節の主張である。
 出題者は恐らく、「個と全体の近代特有の結合」をもとに近代国家の働きかけが行われていた、と読んだのだ。発想と行為を分離して読んでいる。希死念慮があるからといって必ずしも自殺しないのと同じで、「個と全体の利害の結びつきを前提とする」発想を「近代特有の結合」とし、それに基づいて動くかどうかはまた別という考え方だ。
 この文章を出題するくらいだし、きっと出題者の中にはフーコーの思想をより詳しく知っている人間もいただろう。前節の
個と全体の利害が相関 → (実は)全体>個
という逆転現象を著者が読んでいたように、出題者も
個と全体の利害の結びつきが前提 → (実は)全体>個で結びついていない
という逆転を読んでいたのではないだろうか。著者が言うほど、この問題文の範囲で「イ」と「ハ」に尤度の差があるようには、ぼくには思えない。

誤読を判断できるのはなぜか。

正解はあるの?

 結局ここで問題になるのは「なぜ誤読だと言えるのか」である。言語の場合、〈正しさ〉の最終決定権は母語話者にある*5。一方でこれは(出題者も受験生もおそらくほぼ全員が日本語母語話者の)日本語の試験である。論理についてのネイティブはこの世に存在しない。このことが一層ややこしい問題を引き起こす。正しさの最終決定権を誰も持たないのだ。
 だが、我々は例えば「「ホ」が尤もらしく、「イ」は誤りだ」ということを判断できる。僕は先ほど「これが後段で「個と全体の近代特有の結合」と纏められているのは明らかだろう」と書いたが、なぜ明らかなのだろうか。推論のピースはある。例えば

  • 前段落の「近代」「個」「全体」といった語彙が共通している
  • 「特徴」→「特有」、「結びつけ」→「結合」と語彙的な連関がある

ことは分かるし、文章のルールとして

  • 記述は適宜まとめられ、散逸しない
  • 情報の流れに沿って記述するため、より後ろで説明されることは少ない

といった一般論があることも、まあ確かだ。そうであっても、この言い換えを厳密に、潔癖的に証明するのは難しいと思う。現に出題者は構造を見抜けず「誤読」(と、思われる読み方)をしている。しかしこれを誤読と断言することはできない。なぜなら現にそう読んだ人間がいるからだ。元の記事ではナイーブに「こう読み取れるのでこう」という説明をしているが、そう読める理由の完全な説明はできないはずだ。

普遍的同意

 虹の色は観点によっては非可算無限色であり、七色であり、例えば色覚異常者にとっては二色に見える*6こともある。が、大部分は四色〜八色くらいがコンセンサスの範囲だろう*7。色覚・視覚は先天的なもののため単純なアナロジーとはいかないが、「読み」についても〈解釈の揺れ〉と〈コンセンサス=普遍的同意〉がある。学習によってコンセンサスに至るスキルが獲得され、大抵「正しい」読みができるようになる。ちなみにこのステップに失敗するとインターネットで「文字の読めない人」「義務教育の敗北」と揶揄されてしまう*8
 普遍的同意は学習によって誰でも獲得できる機能なのだろうか。そもそも、普遍的同意は成立するのか。現代文は科目の特性上この普遍的同意の成立を前提にしているように思えるが、かなり無理筋だと思う。この点は記事で扱われている「国語入試問題の構造的な欠陥」の根本でもあると思う。
 無限に近い注釈を付けることで、ある程度解釈の幅を狭めて普遍的同意を得やすくすることはできるだろう。でもそんなのは現実的ではないし、解釈のズレを無くすための文章に解釈のズレが発生しうる以上、有限の紙幅で行うのは事実上不可能だ。

「読み」の論理化

 この論考のまとめとして、「読み」は言語化できないことを主張しておこう。記事の筆者は「解答の根拠」の説明責任が大学にあることを述べているが、説明されたとして、どうするべきなのだろう。「読み」をいくら説明しても説明しきれないロジックはある。
 仮に大学が説明責任として解答根拠を公開し、著者や各予備校がさらにそれについて大学と議論を重ね一定の「コンセンサス」が取れたところで、それはその範囲での同意でしかない。また別の読み方をする人間は発生しうる。それに対してまた議論するんだろうか。選択肢に答えが無いと主張する人間が発生したら、流石に手に負えないだろう。説明責任は、人が負うにはあまりに重いのではないだろうか。

Why be Moral? ふたたび

 哲学的(あえてそう言わせてもらう)には、結局どれだけロジックを尽くしても完全な根拠は内的に、そして相対的にしか語ることができない、というのがぼくの主張だ。これは変わらない。そして「なぜ普遍的同意を志向するべきなのか(そうではない読みもありうる中で、なぜ普遍的同意を仮定してそれを正解とするのか)」というWhy be Moralの変形も含まれている。記事の筆者はナイーブに大学側にMoralを求めているが、やはりそう簡単ではない。

〈論理ゲーム〉

 後期ヴィトゲンシュタインは、言語を慣習的に成立した=絶対的でないルールに基づく活動として捉え、これを〈言語ゲーム〉とした。僕の「論理」に対する考え方は、これになぞらえて〈論理ゲーム〉と呼ぶべきかもしれない。
 塾での仕事は、いわば入試現代文という〈論理ゲーム〉を身に付けさせる仕事なのだろう。だが、教える側のぼくですらこのゲームのルールを正確に把握できていないし、そんな基準で以って入試が成立するというのも思えない。この〈論理ゲーム〉が内側にいるとなぜか成立しているのも本当に不思議だ。

追加の論考②市川伸一『勉強法が変わる本』

 フォロワーが同著者の『勉強法の科学』を読んでて、こっちを思い出して読んだらpp.91-92に次のような指摘があった。少し長いが、丸ごと引用する。

文章理解に使われる知識とは,まず第1に語彙や文法などの言語的知識である.少しかたい文章を読むためには,それなりの難しい言葉を知っていなくてはならない.第2に,文章の内容に関わる知識で,いわゆる常識にあたるものから,政治,経済,科学,芸術など,さまざまな分野にわたる.説明的文章の読解にはこれが大きな役割を果たす.そして,第3に,感情や人間関係に関わる社会経験的な知識である.文学的な心情読み取りは,これが豊かでないとむずかしい.

2つ目までの要素はよく取り上げられる(特に受験英語では「教養」という言葉で表現されている。かつての駿台など)ものの、3つ目の論点を挙げているものはなかなか見たことがない。ちなみに、ほぼ同じ概念を「標準的人間モデル」という言葉でぼくは既に記述しているので、そちらも参照して欲しい(記事が膨大になってきたのでそろそろクロスリファレンスが欲しい)。
著者はこれらの知識をもとに「推論して筋の通った解釈をつくりあげる」と述べているが、ここはぼくと立場が違う。僕のこれまでの論からいえば、むしろこの(非体系的な)社会経験的知識が、小説内での内的なロジックとして正しさの根拠を規定している。これによって妥当な解釈を作るのではなく、これが分かることが解釈を正しいと直観することと等価なのだ。言語的知識も同じだ。ぼくの言語ゲーム観念から言えば、言語的知識に基づいて(それが先にあり)文章が分かるのではなく、文章が分かるということと言語的知識は等価なのだ。そういう意味で、本書の次の指摘には軽く絶望してしまう。

〔引用者注: 上に挙げたような知識の獲得は〕授業を聞いたり,参考書を読んだり,問題集をやったり,という勉強ではおよそ対処できない.

 むかし塾講師(責任者で、かなり偉い)とご飯を食べたときに「俺がいくら国語指導の技術を挙げて国語の受験指導を実践しても、普段から本読んでるやつの素の読解力には勝てない。受験指導は読書に適わない」と言っていて、当時はそうかなあ……くらいに思っていましたが、今思うと経験に裏打ちされた非常に優れた洞察だったのですね。

追加の論考③ 「客観的に読む」?

 元気にインターネットサーフィンしてたらこのような記事を見つけました。駿台で現代文を教えている中野芳樹という人のサイトです。問題意識が似ているので、引用しながら検討していきましょう。

出題・回答の構造

 まず当該記事では筆者(a)、出題者(b)、回答者(c)の三者の立場を設定しています。筆者aは伝えたいこと(主観a)を文字情報として誰からも自由に読まれるもの(客観a)として表現します。その後、出題者は客観aを解釈し、主観bを作り、その読み取った結果(主観b)を基に入試問題(客観b)を作成し、回答者は客観b(および課題文として客観a)を解釈して回答(主観c)を作成します。簡単にいえばこれが国語におけるa, b, c間の構造です。さて、国語問題が問題として成立するには主観a = 主観b という前提が成立していなければなりません。しかし「この「前提」の正当性は自明のことではない」と記事では指摘しています。これは本当にその通り。実際、この等式が成立していないと思われる例は入不二基義『哲学の誤読』で挙げられています[出典を追記]。ちなみに、同様の概念を追加の論考①内で「普遍的同意」として既に提示しているので、そちらも参照。
 次の指摘は非常に重要でしょう。

こうして見ると、「正しい読解」「正解」について、
主観a = 主観b = 主観c
という等式が成立可能であるという、極めて無理のありそうな前提が、素朴に広く了解事項とされているようです。
(中略)
この問題については、しばしば「客観的に読解する」とか「論理的に考える」とか「本文に従う」といった言葉が無反省に多用されています。

この記事はこの後「私の客観的速読法なら厳密に読解できる方法論が身に付きますよ!」というセールストークになってしまい、デカルトの『方法序説』を読んだときのような残念さを味わったのですが、それでも引用した部分は重要だと思うので残しておきます。
 ちなみに国語入試問題ではテクストの一部を切り出して使ってしまうので、状況的には客観a' (⊂ 客観a)を読んでいるに等しく、そもそも主観a = 客観a'という等式すら怪しいです。実際、前述の早稲田の出題はこの構造も孕んでいるでしょう。ぼくは上述の主観の等式が成立するという素朴な神話に加えて、逆に我々が何を根拠に「等式が成立していない」とみなすのか(なぜ自動的にみなせるのか)ということもまた、不思議なことだと思う。前掲の『勉強法が変わる本』もそうですが、なぜ「ロジック」感覚の重要性について触れた本が無いのでしょうか。やはり極めて大事でありながら全く指摘されていない気がします。

*1:ここで雨が降るという現象には水滴の落下現象が伴い、これによって地面は濡れている(濡れている地面が少なくとも領域として存在する)とする。実はこうして語の意味を了解できることも不思議なのだが、議論が混線するのでこれ以上は触れない

*2:まあ大抵の学力問題はモラルが要求されているので、わりと今更な話ではあるのだが。

*3:要検証

*4:要追記

*5:厳密にはこれも違う。言い方は悪いが、頭の悪いネイティブに学術英語の決定を任せるのは難しい。十分に信頼できるネイティブ複数人でコンセンサスを取るのが通常で、この意味ではやはり究極的な正しさは担保されない(それは潔癖というものだ)

*6:黄色と青など

*7:完全に余談だが、LGBTのレインボーフラッグは色覚異常者という多様性の排斥にならないのだろうか

*8:日本の識字率が高く、また幸運にも教育にありつけたおかげでできるだけのジョークなのだが、そういう構造への無頓着さがすごいと思う。無邪気というか、なんというか。

なのです。

 解釈とは創造なのです。意味のフレームを常に変換し続けることが解釈なのです。固定された意味の読解は解釈ではありえないのです。

 死とはつまり責任なのです。我々には我々が生み出した意志と表象としての世界を終わらせる責任があるのです。死とはその責任を取り立てるためのものなのです。責任は主客から離れた価値なのです。

 認知科学は人間理性の記述文法なのです。そしてまた、数学は人間理性の生成文法なのです。数学の拡張する理性の平野を詳述するのが認知科学なのです。

 読書とは技術なのです。それは高尚な意味を持つ営為ではなく、情報の吸収におけるパッケージ化された単なる手法なのです。読書家とはベルトコンベア傍に座るアルバイトなのです。

 救済とは死なのです。聖書の提供する「救済」は根源的に生に帰属している点で似非救済なのです。ニーチェの「神は死んだ」とはすなわち、「神が死という真なる救済に至った」という新しい神学へのプレリュードなのです。

 芸術とは系統樹なのです。鑑賞眼とは系統樹を読む視力に他ならないのです。そして解釈とは系統樹への接ぎ木なのです。

 言語とは写像なのです。言葉は多次元の意味を直線的羅列に変換する操作なのです。意味理解とは与えられた一次元の情報から元の多次元情報を復元する操作なのです。

 子供とは有形化した責任なのです。理性という機能を持たない人類にも五感で理解できるように神が与えた責任概念の固定が子供なのです。子供はフレイザーによる人間神の理論の双対なのです。





以上の文章はすべてフィクションなのです。実在の人物や団体などとは関係がないのです。

九月十八日

 こんばんは。一週間おつかれさまでした。TV アニメ『トニカクカワイイ』の OP テーマ「恋のうた」は Yunomi さんの曲なのですが、めちゃくちゃいいですね。

箸にも棒にもかからない日記

知識欲とも呼べないキモい欲の話

 自分が勉強するモチベというか(自分の中で感じている)意義って、「自分が知って理解していることが昨日より増えてれば最高」というカスみたいな信念なんですが、本当に無節操なので """知識欲と呼ぶのもおこがましい謎のキモい欲""" じゃんという話になり知人と爆笑してました。要するに興味の向くままに知りたいし、知るとなればそれなりにちゃんと知識を整理したいんですよね(???「私のモットーは『広く浅くちょっとだけ深く』なんです」)。自分の頭の中が整えばそれでいいというか。体系的な雑学が欲しいんですよ。分かりますかね、この感情。
 まあとはいえ節操は無くても秩序はあるので、前にも話したんですが、白紙の状態の自分に色をのせていくという感覚でやってます。この説明、「すべてのことを理解するのは無理」という観念と「選べる色の有限性」が、「知識は繋がり合う」という信念と「色の混合」が、「知識の深さ」と「色の濃さ」とが対応していて意外と使いやすいモデルなんですよね。自分は結構気に入ってます(自分の中で言語化したものが上手く使えると嬉しいので)。
 そんなわけで、この前の日記の「もしかしてだけど教養ビジネスより俺らの方がキモいんじゃないの?」という話の続き物でした。

今月出た/来月出る新書のうち気になってるものの話

 独断と偏見で選んだ。新書は最高 yeah yeah.

『知的文章術入門』(黒木登志夫、岩波新書
 この手の「文章論」本てもう十分に使用に耐える本が何冊も(『理科系の作文技術』、『日本語の作文技術』、『論文の教室』etc…)出ているのにそこに加えるだけの独自性ってあるのだろうかとシンプルに疑問がある(あると思ったから出したのだろうけど)。

『批評の教室』(北村紗衣、ちくま新書
 これマジで気になる。フェミニズム批評の人です。超読みたい。

ユーゴスラヴィア現代史 新版』(柴宣弘、岩波新書
 前にふとユーゴスラヴィアの歴史を知りたくなったときに欲しいものリストに入れていたのだが、なんか買わないうちに新版になって出ていた。

『伝わる英語表現法』(長部三郎、岩波新書
 今月出たものではないけど復刊なのでカウント。

『物語パリの歴史』(福井憲彦中公新書
 ヨーロッパ史の本が増えるのはいい傾向でございます。

『はじめての精神医学』(村井俊哉、ちくまプリマー新書
 「精神医学」というジャンル提げて中高生向け新書が出るの凄くね。

『宗教図像学入門』(中村圭志、中公新書
 みんな大好き宗教(語弊)。まあでもなかなか良さそうよね。美術と接続できる話題だし。

東京都薬用植物園に行った話

 人間と買い物に行くついでに寄り道しただけですけど結構楽しいスポットでした。
 ケシやアサを栽培してる場所です。アヘン窟の原材料を覗いてきました。さすがに栽培してる場所の警備は堅牢で、鉄格子で二重に囲い上部には有刺鉄線、辺りにセンサーらしきものをいくつも配置し赤色ランプもありました。侵入にはなかなか骨が折れそう。一般客は二重の鉄格子の外から中を覗くというかたちなのですが、アサの葉がちゃんと""あの""アサの葉の形状通りで面白かったです。
 他にも「薬用植物園」というだけあって漢方薬や民間薬に使われる植物や有毒植物も見れました。作用する成分なんかも併記されてるので化学科とか薬学部の人間と行けばまた楽しいんだろうなあ。植物とか全然知らないので「クリスマスローズ」て名前で「心臓停止で死ぬ」のマジで最高だなとか考えながら見てたわ。何気に芍薬や牡丹、桔梗の実物を見たの初めてでした、ちゃんと四季を合わせればよかったなあ。あと、彼岸花はいつ見ても映える。あんないい花ないよな。
 あと香料や染料の区画もありました。オレガノとか初めて見た。
 温室にはカカオの木があり正直一番テンション上がった。俺は今日からカカオの実を実際に見た人間になれたので。ウツボカズラとかキャッサバ、インドボダイジュみたいな実物見るのは初めてのものばかりでした。植物園、楽しい。菩提樹を見れたのは非常に良かった。
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