2022-0321-0327

テキトーに書いてるのでごちゃっとしてます。


 飲みをした。中学のときの知人と、鳥で貴族な某お店。人と話すのは楽しい。基本的に人間関係をリセットしがちな悪癖人間のぼくにはかなり貴重な友人である。
 ぼくはそもそも胃袋が小さく小食な人間なので、お酒もあまり入らない。強い方ではあるけれど、みんながやるようなカクテルやらハイボールやらをドカドカ飲むのは構造的に難しいので、だいたい強いお酒をロックで頼んでちまちま飲む(余談だが、アルハラ気質な人間も初手で電気ブランのロックなどを頼むとあんまり目をつけてこない、オススメ)。鳥で貴族なお店はそういう風に都合よく飲めるものが無かったので珍しくカシオレやコークハイをよく頼んだのだが、やっぱり体に合わなかった。弱い酒を量で誤魔化すのは向かないっぽい。
 美味しい酒を開拓していきたいね。


 最近見る夢に、ある女の子と出会うものがある。ぼくはその子の名前も知らないし、正直なところ顔もよく覚えてない。髪型はショートかボブだったはずで、ぼくはロングが好きなのにな、と思ったのを記憶している。
 今日の夢は、季節が夏でもうズレてるんだけど、自転車に乗っているあの子と色々な場所へ行った。行き場所は地元と山梨と西武柳沢のちゃんぽんみたいな場所で、彼女を追いかけていった先についた学校は「東海学園女子」という場所だった。彼女の通っている高校なのだろう。一応起きてから調べてみたけど、東海学園女子なる高校は存在しなかった。俺は『君の名は。』的運命には恵まれていないらしい。
 然るにこれは俺にとっての青春のかさぶたなのかもしれない。綺麗な街路樹、夏、真っ赤な自販機、砂埃の舞う校庭、ゲームセンター、夢で彼女と歩いたあらゆる光景はすべて経験済みで、なのに、あらゆる光景が美化されすぎて眩しかった。俺の心は小学校低学年のときに従姉妹と観た『時をかける少女』に10年以上囚われたままだ。人間には「もはや作品の巧拙など抜きにして評価してしまう原点のような作品」というのがいくつかあって、時かけもそのひとつなのだ。低学年の脳を破壊したこと、許せないな。

『明日ちゃんのセーラー服』の話

 最近観たアニメは『明日ちゃんのセーラー服』です。ちなみに「あけびちゃん」と読む。これが結構(興味的な意味で)面白いので、いくつか書いていく。
 日常系なのでネタバレ? という感じだけどまだ観てなくて他人の感想に自分の鑑賞を侵食されたくない人は一応注意。

主人公の「非実在」感

 まず主人公「明日小路」は極めて情緒豊かで、明るく、楽観的、好奇心旺盛で賢い(舞台の私立蝋梅中は「塾に行かないと入れない」と作中で噂されるような学校で、そこに独学で入れる程度には賢い)。ぶっちゃけたことをいうと、明日小路には実在感が無い。より正確に言えば、アニメの非実在キャラにも普通ならあるはずの「この方向でもっとノイズを増やせば実在の人間に近くなる」感覚が無い。実際に観てもらえば分かると思うが、明日小路だけレイヤーが違うような感覚がある。

マジックリアリズム

 明日小路の「レイヤーの違い」はそれだけではない。タイトルからも分かる通り明日小路は学年で唯一のセーラー服で、クラスのアイドル的立ち位置として描かれる。他の生徒は極めて人間的で感情移入可能なのに、そこにコミットする明日ちゃんに実在を感じない。作者がここまで考えているかは分からないが、これはマジックリアリズムの構造になっている。ぼくがここまでに挙げた要素はマジックリアリズムの文法では全て非実在の記号として機能している。これはすごいことだ。そもそも「明日ちゃんのセーラー服」というタイトルで明日ちゃんが既にセーラー服を手にしていること、そのセーラー服がシナリオの駆動に関わってこないことが不思議だったのだが、記号という解釈ではこれらが不思議ではなくなる。
 漫画家というのはすごいもので、こうしたことを意識せずに描けてしまう。赤坂アカの「かぐや様」でも、白銀御行の運動音痴とワーカホリックがコメディタッチに描かれているが、これらは協調性運動障害と過集中で発達障害の符号だ。藤原千花の語学センスとコミュニケーションの無鉄砲さはASD傾向を示唆させる。定型発達だが他人に厳しい四宮にASDの藤原だけが近付いて、同様に発達障害を示唆する白銀・石上が生徒会に囲い込まれる。こういうのは知りすぎると却って自然に描けないもので、センスで埋めてしまう漫画家に脱帽する。
 ちなみに第2話で明日ちゃんが「空気が読めない」という描写が入って謎だったが、これは「小学校6年間を生徒1人の学校で過ごした」ことが理由だと表現された。これも凄い。明日ちゃんの非実在感にノイズが入らないようになっていた。

初見で感じた気持ち悪さ

 「明日ちゃん」がマジックリアリズムの構造なのは分かったが、このアニメ、それ以外に恐ろしいくらいフィクションの記号が排除されている。超常的な現象は何ひとつ起こらない、いわゆる「きらら的な日常系」のシナリオで作られているのに、作画が人物から背景に至るまで極めて写実的に描かれている(『ゆるキャン△』と比較すれば、本来のきらら日常系がいかにフィクションの記号に溢れているか分かる)。つまり視聴者はきらら的日常という非現実を写実的な文法で観せられるので、ここに認知的不協和が起きる。ここが非常に気持ち悪かったのだが、この感覚が逆に観続けるアンカーになった。


 国語、ないし現代文の「論理」は規則のパラドックスの構造があると思うのだが、ツイッターでパブサをかけても全然ヒットしない。


 『英文法総覧』を眺めていたらちょっとクスッとなる記述があったのでそのまま引用する:

可算名詞が不可算名詞化する,きわめて一般的な現象の一つに,「食物化」ということがある.どのような可算名詞によって表されるものでも,ひとたび,人間の口に入ると,そのとたんに,不可算名詞によって表されることになる.次の(1)と(2)を比べてみることにしよう.
(1) What I like is a monkey.
〈私の好きなのは猿です。〉
(2) What I like is monkey.
〈私の好きなのは猿の肉です。〉