三月七日

 無気力だったりやる気があったりという状態が不定期なのが最近の悩みである。今も午前二時に日記を書いているがそういった生活習慣の乱れも一因かもしれない。午前二時といえば踏切に望遠鏡を担いでいき大袈裟な荷物を持ってきた『君』と天体観測をする時間である。いいよねえBUMP、天体観測だけは知ってるって人がいるくらいの曲だけどやっぱ支持されるだけのものがあるよね。 『天体観測』という歌は「現在、未来、迷い、人生、そういう明確な答えを持たないものの答えを追い求める」その姿勢を一心に歌い込んだものだと僕は解釈している(まぁ歌なんて聴いた側に解釈が委ねられるものでBUMPは特に広く解釈の幅があるし、個人的な話として聞いてね)。一番分かりやすいのはサビで「見えないもの」という抽象的な形で表されてるところですかね。「静寂を切り裂いて幾つもの声が生まれたよ」というのはそういう未知のものに対する可能性のことだと思っています。余談ですが現に私も来たる大学生活に対して明るかったり暗かったり様々なイメージがあります。この辺多分僕に似た人間はわかってくれると思うんですけど、「明日が僕らを呼んだって 返事もろくにしなかった」というのはまさにそういう未知からの声に呼応しない、聞くだけで応えない、夢を見て理想だけ持って現実を動かさないことだと思います。 同じBUMPの『宇宙飛行士への手紙』の中に「今が未来だった頃のこと」っていうフレーズがあって僕はめちゃくちゃ好きなんですが、「「イマ」というほうき星」に通ずる表現なんだなぁと最近思いました。
 未来への無根拠で現実離れした理想化を抱えて宙に浮いてしまったんですよね。

 今でも幸せの定義とか悲しみの置き場とか永遠の愛とか運命の出会いとか探しちゃうな。もっと言えば雪と赤いマフラーとか入道雲とか秋風に吹かれて帽子を押さえる君とか拗らせすぎた青春コンプレックスも探している。
 二番サビはさっきの話からすれば結構分かりやすくてあのとき聞いた声は成長しても「知らないもの」のままで「深い闇に飲まれないように精一杯だった」のに今は暗闇を照らすような微かな光を探してるんですよ。暗闇で、先が見えなくて、正しい方向なのかも分からない、その中でもがき傷付いた痛みを、抱いた理想に届かない痛みを覚えている。そういう歌です。

 背が伸びるにつれて〜というのは『君』と自分という喩えに「自分と探しているものとの自問自答や言い訳や鼓舞や泣き言など様々な言葉」を込めていると個人的に思います。ただ一つ、雨は降らないはずだったのに土砂降りで、泣き出しそうな君の手を握れなかったあの日を今でも思い出している。その詩から「見えてるものを見落として 望遠鏡をまた担いで」僕らが見えていたのに見落としたものってなんでしょう? 今が「イマ」となってしまった僕は、昔の自分が「見えなくて見ようとした」本来見えているはずのイマを見落としている。そんな僕らはもう一度ほうき星を見ようとする。隣に君はいないけど。幾つもの声が聞こえた静寂と微かな光を探した暗闇という、成長の過程で探したものをフラッシュバックしながら。結果的に思い描いていた、望遠鏡で見たものとは違うけど、随分違う場所に立っているけれど、だけれども、そうやって探し続けた、もがき続けた痛みは確かにここにあって、イマの正しさなんて分かりゃしないけど、その痛みだけは本物で正しくて……。
 そして最後、僕は「もう一度君に会いたくて」望遠鏡を担ぐ。「前と同じ午前二時」に。始めようか、天体観測。あのときとは思いの形も何もかも変わっているけれど、それでもきっと君は同じ空の下で「イマ」を探しているのだろう。どれだけ傷付いても理想がなきゃ僕らは先へ進めない。残酷なようだけれど。別の歌を引用すれば「僕が僕であるために」は「勝ち続けなきゃいけない」のだ、「正しいことが何なのかこの胸に分かるまで」は。
『天体観測』は、個人的にはこういう、理想との差で見落として正しさなんて答えなんて分からなくて傷付くのは怖いけど先へ進まなきゃいけなくて……そういう思いを抱えて答えを探すことを強く強く大切に歌った歌だと思います。大好き♡