二月二十一日

 最近連続して日記を書いているのは激化する受験勉強の息抜きである。受験勉強と焦燥感が全く激化しないところからしておそらく受験勉強が退屈の息抜きである。


 今日はお出かけの機会があり長時間電車に乗っていた。途中で持ってきた本を読んだりしていたのだが、飽きて周りを見たら老若男女大小松竹梅津々浦々様々な人間がスマホを見ており、どうして人はスマホを見るのかとぼんやり考えていた。
 ここではLINEやEメールも広義のインターネットとすればおそらく電車に乗っている、あるいは電車をホームで待っている人間は大抵がインターネットをしていると言っていいだろう。中にはゲームをしている人間もいるだろうが、ああいう環境で集中してゲームというのは難しく、大抵は開いているだけで活字情報の流れてくる環境で怠惰に彷徨っている。
 気になったのはインターネットが「内」の性質を持っているところだ。人は「内」の世界に潜み社会をやり過ごしている。電車で誰かが異常行動を取ると人々はスマートフォンに入り込む。特に物理的壁ができたわけでもないのにそこに逃げ込むのは、そこに安心できる「内」の性質があるからだ。興味深いところで、インターネット製の「内」には他者が存在するのだ。フォロワー、フォロイー、あるいは友達登録された知人など、潜む世界は自分だけで構成されていない(自分ただ一人の世界は自己の内面であろう)。かくいうわたしも今この文章を日記の体裁で読まれる誰かを想定して書いている。

細田守の『サマーウォーズ』を引き合いに出そう(余談だがぼくはこの映画でなつき先輩の一族と健二くんが縁側に集まるところが好きだ。夏らしい青空とその逆光で影として描かれる人間達には不思議な程の穏やかさがあり、強いはずの先輩の心の隙間に触れ、ひと夏の博打に打って出る決意をする。いいよね)。同作では現実と「Oz」と呼ばれる電脳の世界の二つが主軸となり舞台を成していた。
 2009年8月1日に公開されたこの映画で、Ozは日常のあらゆること――それは事務手続きに始まり買い物からスポーツに至るまで――がこのサービス上でできる、というものだった。2009年はYoutubeの日本語版サービス開始から二年後、iPhoneの日本での販売開始やTwitter, Facebookのサービス開始から一年後という「手元の端末でワールドワイドに接続できる」文化が日本に入ってきた転換点の時期と言える。そういう背景で描かれたOzの世界は拡張された現実、つまり決定的に「外」の性質を持っていた。それこそが同作においてOzの世界と現実との対応関係に実感を、Ozの危機が現実の我々の生活を危うくするという事態に臨場感をもたらしていたのだ。ラブマシーンが電脳の「外」を掻き回すことで現実の「外」で交通網が乱れ救急が四方八方に呼び出され個人情報は握られた。最後に落とされるミサイルのカウントダウンは「外」と「外」の繋がりを象徴しているものだ。

 しかしどうだろう。公開から十年以上、もうひとつの「外」となるはずだったインターネットは人間のもうひとつの「内」に変わってしまった。人々は関係性の介在する内側に閉じこもるようになった。社会という剥き出しの悪意やしがらみや重圧からは切り離された、そしてまた孤独になりきらない、程々に他者の介在する、甘い内面の世界を持ってしまった。ワールドワイドウェブという言葉に見られるような理想をインターネットの発展が持ち続けていれば或いは違ったかもしれないが、人間にこんな便利な道具を与えたらそんな高度な理想は叶わないのは当然だろう。

 ここからはほんの脇道。
 インターネットの「内」には他者が存在するのだから、当然人間関係の疲れが、ともすればインターネット特有の風土病的な性質を伴って現れるだろう。そういうもので疲れないためには、ありきたりだが自分自身の「内」を大切にするべきなのだ。これはツイッターで何度も言っている(これ自体既に矛盾でウケちゃうね)が精神の熟達があれば極論孤独でも自身の精神で遊べるのだ。ショーペンハウアーは社交と称して中身のない乱痴気騒ぎをする連中を烈火の如く嫌っており大変面白いのだが、記事を圧迫するのでここでは引用しない。兎に角インターネットも程々に、ということなのだ。これは本を読むのが偉いとかの価値判断は含意しない。インターネット的な内側の世界で生きれるならそれもまた生き方だけれども、わたしのように、自分を大切にしたい寂しがり屋は、自分自身の内面世界に居場所を作りつつ時々インターネットに顔を出すという程度にしておこう。内面を育てるのは読書である(昔の知識人っぽい発言)。あと音楽もいいよね。みんなBUMPを聴いて藤原基央遺伝子を受け継いでくれ。
 ちなみにわたしはツイッターで話しかけてくれれば大抵ニコニコお話しますよ。

 そんな所で。おやすみ〜。