九月十一日

 こんばんは。明日バ先の研修があって心がしんどいです。

散漫な日記

 「自分から半径数メートルのことしか気にかけない」ことって(この表現とともに)「未熟さ」として批判されがちじゃないですか。それに対して「自分の周り、特に歳下の面倒を見れる」ことが「成熟」の証として対比されがちです。でも本当に前者って未熟なんでしょうか。個人的には他人の面倒を見ることを「他人の面倒に巻き込まれる」や「他人に過度に期待する」こととして誤解してる人の方が多い気がします。
 というのも、少し前に

「知的誠実さ」みたいな言葉、もう自分が自分に対してかける誓約としてのみ使おうという気持ち。

というツイートをしました。本音を言えば、これは「知的誠実さ」に限らず、「《あらゆる態度や倫理的判断》は基本的に自分の矜持についてのみ要請しよう」という感情が生えた上でのツイートでした。前々からぼくはこの姿勢で人間関係も営んでいたのですが、言語化によって決意を新たにした形です。知的誠実さの例で言えば、(もちろん場面にも依りますが)自分への制約と誓約として自分の能力が向上する方向にのみ使い、他人が知的に誠実か否かなんて特別な状況でもない限り気にしない、という感覚です。
 個人的に、人の行動を気にするのは疲れます。他人に対して「こう変わってほしい」なんて持つだけでしんどいものがあります。他人のことばかりで(自分から半径数百メートルを気にして!)自分自身が拡散するのは避けたいです。僕は何も「自分自身だけを気にかけろ」と言ってるわけではなく、人間が割ける認知コストは有限であることを認識して、自分に処理できること、必要なことを取捨選択しながらアナログに生きていきたいということを主張してます。
 逆説的ですが、「他人としっかり付き合う」には「自分の半径 0 メートルを気にかける」ことが大事になってくるんだと思います。人との関係が他者依存になりがちな人なんかは特に。向き合うべきときに本気で向き合うためには、「相手に引き込まれない自分」という存在が大事になると思います。「自分勝手に生きる」ことはできても「自分の半径 0 メートルを気にかける」のって実は難しいんじゃないでしょうか(かくいう自分も実践は難しいです)。前者はまさしく未熟ですが、後者はある意味で成熟に必要なものなんじゃないかな、と思いました。

 実際のところあらゆる知識をオモチャにしてる自分と、知識に「教養」ラベルを貼る人ってわりと差がないよな、と思いました。玩具と呼ぶか教養と呼ぶかの違いだけ感があります。
 オモチャといえば(無理矢理)、自分には様々な言説を面白半分に弄り倒す悪癖があり、これはまじでやめた方がいいよなあと思いつつ、ちょっとした依存症なのでついやってしまいます。もはや自分の本音が何なのかよく分かりません。上に書いた内容も自分でアジれる。

 先ほど文章作成の個人的なルールを投稿しました。少し裏話を。
 自分のゼミの準備やノートを見ると、結構フィーリングで記号を使っていることに気付きました。できれば手書きのルールは統一したい、と思っていろいろと作ったのがこの記事です(発展途上)。
 河東先生は「セミナーの準備のしかたについて」で

数学の論理は有機的につながっていて,定義でも,仮定でも,補題の順番でも,何か理由があってそうなっているんですから,全体の構造を理解していれば,正しく再現できるようになります

と述べています。また、文書には内容とは別に論理構造を章、節、小節……のように表現する機能があるのですから、手書きにおいても文書の構造を意識するためのルールを制定することは有効だと思い、まず section 周りの環境を整理しました。
 そうしていろいろ気にし始めると今度は句読法を考えたくなったりするのが人の性というもので、だんだん文書作成の規則集みたいになってしまいました。とりあえず構造化と定理環境は纏められたので困ることはあまりなさそうです。手書きでの記号の書き方なんかもそのうち追加しようかなと思います。


 日記を書くとちゃんと長文が多くなりますね。昨日の日記は「ツイートの集合体」みたいな文章しか書けなくて自分でも少し驚きました。