三月三日

 女の子の日らしい。ところでぼくは毎月(毎週かな)に数回朝から晩まで体調が悪い日があるのだけど男の子の日も認定してほしいところ。いや本当にしんどいので。あと眠くなっちゃうのも結構つらいときが多い。むーーーーーん。


 「努力は必ず報われる」が嘘だと薄々勘づいてる皆さまでごぜえましょうが、今日はこれについて色々考えていた。
 まずもって方向性を間違えた努力は報われない。司法試験合格を目指して線形代数を勉強するのは誰から見ても間違っているのだけど、そういう極端なものでなくとも、既に覚えた単語まで一緒に暗記しようとするとかただ丸暗記しようとするとかは努力効率が悪い。これは「人間が一度に覚えられる情報の塊(チャンク)は七つくらいが限度」だとか「丸暗記が得意なのは幼少期までで成長につれて意味付けで記憶する方が得意になる」だとかの知識があれば避けられる。逆に覚えたい対象を有意味化して繋がった塊で覚えれば効率がいいといった良い方向への応用もできる。詳しくは『勉強法の科学』とか。このタイプは努力次第で結果が出せるように(少なくとも出せる可能性のある方へ)変えることができる。
 問題にしたいのは努力の方向も量もあってなお報われない場合で、こういう場合のやるせなさは大きい。僕自身のいなし方として、例えば試験なら「どうせ他人が他人の用意した尺度で出来不出来を測ってるだけ」と開き直ってしまうというのがある。自分で英語とかの勉強を始めてみて、試験ができるようになること以上に読める文章が増える楽しみの方が大きかった。文法や単語のクイズ的な知識が増えることが快感で、そういう自分で閉じた快楽サイクルを作っちゃうのも手だよなぁと思う。とはいっても大学入試なんかはそんな個人の思い云々を超えて人生の方向性にも作用するから、簡単に割り切れるものでもない。そういうとき、これは最近の人生観でもあるけれど、与えられた天分の範囲でできた努力が届かなかった、と思うと少し気が楽だと思う。様々な要因で天分というものは決まってくるが、まあ自分に与えられた天分の上限はここだったのだな、と考えてしまうのもひとつ手段だろう。そもそもが生きる必要のない生を様々な制限付きで生かされているだけなのだから届かないならそれまでだと言ってしまえばいい。これは推奨するわけでもなくただ僕なりの処世術箴言とでもいうようなもので、ある意味では決定的に妥協と逃げで構成されているとも言えるけれど、努力が必ず報われるなんていう幻想よりはよっぽど気が楽じゃないかな、と思う。
 ひとつ付け加えるならそうやって上を目指せることに感謝するべきだろう。これはぼくにとっての自戒でもある。少なくとも誰かに助けてもらった場所で努力しないのは怠慢だと過去の自分に対して強く思っている。人間が全て環境要因でできているとも全て努力でできているとも思わない。積み上げた努力はその人だけのものだ。これは認めるべきだろう。その上で、ぼくは常に謙虚でありたい。そこで視野を失いたくない。

二月二十九日

 『ハヤテのごとく!』がサンデーうぇぶりで全巻無料公開を始めたので無限に読んでしまった。手持ちの単行本に抜けがあるので今度揃えようと思った。
 小学生のぼくをオタクにした畑先生がまさか十年越しくらいにもう一度ぼくの時間を奪っていくなんて想像してなかった。
 それ以外だと『シメジシミュレーション』を読んだ。こっちはほのぼのシュールに所々言語センスが刺さっててかなり好きな作風だった。魚への愛が強い。
 そういうわけで今日は漫画を読んだほかに何もない。

 おやすみ(史上最短)

二月二十八日

 今日は渋谷マルイで開催されているつくみず展に行ってきた。


 ここ数日は中央線以外の路線を使うことが多く、久しぶりに中央線を使う機会だった。昼過ぎに行ったので割と空いており、満員電車で発狂一歩手前をダンスしがちな僕としてはありがたかった。
 渋谷駅は人、人、悪臭、人、ビル、ゴミ、人とお馴染みの安心感で迎えてくれた。感染症など何処吹く風、ハチ公が守護するこの駅は無敵の人混みを生産していた。この駅に来る度に人間への憎悪が増していく。上がピチピチのジャケットで下はダメージジーンズ、側頭部を刈り込み頭頂部にモヒカンを携えアンティーク家具のような色の肌をした人間と十人に四人くらいの割合ですれ違った。そういうファッションをしたくなる疾患が日本を密かに襲っているのかもしれない。

 つくみず展は渋谷マルイで開催されていたのだが、来ている年齢層が割と高め、具体的には大学B2から社会人くらいの人が多くて驚いた。中高生キモオタクの発するオタク瘴気がなくて非常に助かった。
 展示は『少女終末旅行』の原作やアニメから現在コミックキューンで連載中の新作『シメジシミュレーション』までのイラストや原画、スケッチなどだった。今までツイッターに上げたイラストが大体あるのでは? という感じであった。ラフスケッチが結構面白くて、ここから漫画の完成形に至るのマジかよという感情になった。『シメジ』のボイスドラマが上映されていたりとずっと居ても飽きない場所だった。めっちゃウケたのはグッズで、事前にネットに出てたグッズ販売情報よりも明らかに種類が増えていた。ミニ缶バッジは100種類近くあるのでコンプしようとすると二桁万円かかりさすがにそこまでの金銭的余裕は無かった。『たこぐらし』という絵本と、アボカドのアクリルキーホルダーが買えたのが嬉しかったことの一つ。アボカドのアクリルキーホルダー、知らない人からするとマジでなんのことか分からない文字列だ。売れ筋を見越してかなりグッズは仕入れてるようなのでこのペースならイベント後半でもグッズは全然ありそうだった。展示物が多すぎて全部の展示ができず前後半に分けているらしいので、後半も行ってみようと思います。

 本当はアニメイト渋谷で『シメジシミュレーション』と終末旅行のアンソロの同時購入特典を回収してから向かうつもりだったけど特典はすでになくなっており(これは冷静に考えてみれば当然だった)、ただアニメイトに入って中高生オタクの瘴気で体調を崩しただけの人になっていた。まあ地元で無事買えたので満足です。

 今日はちゃんと日記をしている。えらい。

二月二十三日

 なんか数学のお勉強ばかりしていた。懐かしの『代数・解析パーフェクトマスター』を引っ張り出して解いてた。昔より解けた。終わり。

 将来海外に行きたいのでそういうモチベーションで語学の勉強した方が良い方がしてきたので、そういう意識でやっていこうと思いました(小泉**郎構文)。

 なんか思ったより精神的に潰れてて本調子になれないのがちょっとつらい。ぼくにもまだ人間らしい感情があったんだなぁとふと我に返った殺人鬼のような感慨を持った。やっぱり人生の岐路があると違うなぁ。
 具体的に何がつらいかというと『生と愛の苦悩』が読めてないことなんですけどね。


パスカルは人間の不幸を「部屋で一人じっとしていられないこと」だと言ったが、今では部屋でじっとしていてもツイッターを開いてしまうのだから人間の業は深い。まぁそれが不幸なのは正しいけど素朴な感覚として美術館とか外でなきゃ行けないしね。なのでこの言葉のポイントは「一人」の方にあると解釈している。部屋でじっとしているのはそれを実現するための目的の用法が強いだろう。我々は一人になれない。社交を求め、自身の空虚を他人で埋めようとする。今更それをやめることなどできないのなら、そういうものだと割り切るしかないだろう。
 ぼくは結構喋り好きなので一人にはなれないかな。


 世の中(クソデカ形容)の人間、「殺人を容認しない法規にわたしが従わなきゃいけないことになる原理はなくないですか?」というような問いかけに対して「お前は人を殺したいのか‼️」といった斜め87.5°の予想だにしないアッパーカットを返してくるのでわりと怖い。当たり前の倫理観として人殺しがいけないということを容認した上で、じゃあそれby definitionで認めなきゃいけない論理はあるの? などを考えようという話なんだけども。異常者に対して免疫がないのはそういう議論を一切積まないで「普通の感覚」の一枚岩で全てを終わらせるからなのでは、という感じがする。


 結局ぼくは本当の愛とか運命の出会いとか世界の終わりとか夏休みの宝物とか倒れ込んだ雪とか僕たちが真に語るべき言葉とか、兎に角そういう素敵で素敵でたまらないものについて話し合っていたい。そういう感性を錆び付かせたくないし、それを下に見る価値観を享受しちゃうような甘っちょろさから決別していたい。
 そういう気持ち。

二月二十二日

 どうやら「猫の日」というものらしい。ネコと和解せよ。

 猫といえば「猫というのは猫がいなくても生きていける人によって何となく飼われるべきだ」という一文が結構好きです。われわれは猫の気持ちをあれやこれやと想像しつつも、あくまで個人主義のもとに猫の背を撫でるべきなんですよね。
 ぼくはきっと猫飼えないなあ、なんて。学校帰りに見える公園の猫はそこそこ懐いてくれていて、「不思議と相手のことを知っている赤の他人」の距離だと勝手に思っています。

 猫連想でもう一個言うと村上春樹さんが様々な悩みに対して「黒猫を撫でるといいですよ」というアドバイスを返しているのぼくはかなり好きで、他人が他人にアドバイスできる領域の表現としてこれ以上ないほど的確だと感服した記憶があります。黒猫撫でよう。

 さて本題。本日YuNiちゃんが『猫のキモチ』のカバーを投稿しました! 嬉しい!!!!!!


 あのまず総合的にこうじんわり歌う感じなのでYuNiちゃんの摩擦音がはっきり聞き取れます。可愛いね。
 「身づくろいして 毛づくろいして」のところバチバチにキュートですね。善のイデア
 あとこの曲はかなり地声に近いので、普段の歌唱YuNiちゃんとはまた違う声が聴けます。オールナイトニッポンiとか観てると分かるんですがちょっとテンションが上がってたり冗談を言ったりするときのYuNiちゃんの声はわりとこんな感じです。
 「正確なんです」の「な」、良いよね……良いよね……。
 子音の調音がかなりしっかり聴こえるのオタク的にはめちゃめちゃ嬉しいというかしっかり音声を撮りたいというかぐへへ。
 マジで猫の日に爆弾を投げ込まれてしまったな。聴いてくださいお願いします。

二月二十一日

 最近連続して日記を書いているのは激化する受験勉強の息抜きである。受験勉強と焦燥感が全く激化しないところからしておそらく受験勉強が退屈の息抜きである。


 今日はお出かけの機会があり長時間電車に乗っていた。途中で持ってきた本を読んだりしていたのだが、飽きて周りを見たら老若男女大小松竹梅津々浦々様々な人間がスマホを見ており、どうして人はスマホを見るのかとぼんやり考えていた。
 ここではLINEやEメールも広義のインターネットとすればおそらく電車に乗っている、あるいは電車をホームで待っている人間は大抵がインターネットをしていると言っていいだろう。中にはゲームをしている人間もいるだろうが、ああいう環境で集中してゲームというのは難しく、大抵は開いているだけで活字情報の流れてくる環境で怠惰に彷徨っている。
 気になったのはインターネットが「内」の性質を持っているところだ。人は「内」の世界に潜み社会をやり過ごしている。電車で誰かが異常行動を取ると人々はスマートフォンに入り込む。特に物理的壁ができたわけでもないのにそこに逃げ込むのは、そこに安心できる「内」の性質があるからだ。興味深いところで、インターネット製の「内」には他者が存在するのだ。フォロワー、フォロイー、あるいは友達登録された知人など、潜む世界は自分だけで構成されていない(自分ただ一人の世界は自己の内面であろう)。かくいうわたしも今この文章を日記の体裁で読まれる誰かを想定して書いている。

細田守の『サマーウォーズ』を引き合いに出そう(余談だがぼくはこの映画でなつき先輩の一族と健二くんが縁側に集まるところが好きだ。夏らしい青空とその逆光で影として描かれる人間達には不思議な程の穏やかさがあり、強いはずの先輩の心の隙間に触れ、ひと夏の博打に打って出る決意をする。いいよね)。同作では現実と「Oz」と呼ばれる電脳の世界の二つが主軸となり舞台を成していた。
 2009年8月1日に公開されたこの映画で、Ozは日常のあらゆること――それは事務手続きに始まり買い物からスポーツに至るまで――がこのサービス上でできる、というものだった。2009年はYoutubeの日本語版サービス開始から二年後、iPhoneの日本での販売開始やTwitter, Facebookのサービス開始から一年後という「手元の端末でワールドワイドに接続できる」文化が日本に入ってきた転換点の時期と言える。そういう背景で描かれたOzの世界は拡張された現実、つまり決定的に「外」の性質を持っていた。それこそが同作においてOzの世界と現実との対応関係に実感を、Ozの危機が現実の我々の生活を危うくするという事態に臨場感をもたらしていたのだ。ラブマシーンが電脳の「外」を掻き回すことで現実の「外」で交通網が乱れ救急が四方八方に呼び出され個人情報は握られた。最後に落とされるミサイルのカウントダウンは「外」と「外」の繋がりを象徴しているものだ。

 しかしどうだろう。公開から十年以上、もうひとつの「外」となるはずだったインターネットは人間のもうひとつの「内」に変わってしまった。人々は関係性の介在する内側に閉じこもるようになった。社会という剥き出しの悪意やしがらみや重圧からは切り離された、そしてまた孤独になりきらない、程々に他者の介在する、甘い内面の世界を持ってしまった。ワールドワイドウェブという言葉に見られるような理想をインターネットの発展が持ち続けていれば或いは違ったかもしれないが、人間にこんな便利な道具を与えたらそんな高度な理想は叶わないのは当然だろう。

 ここからはほんの脇道。
 インターネットの「内」には他者が存在するのだから、当然人間関係の疲れが、ともすればインターネット特有の風土病的な性質を伴って現れるだろう。そういうもので疲れないためには、ありきたりだが自分自身の「内」を大切にするべきなのだ。これはツイッターで何度も言っている(これ自体既に矛盾でウケちゃうね)が精神の熟達があれば極論孤独でも自身の精神で遊べるのだ。ショーペンハウアーは社交と称して中身のない乱痴気騒ぎをする連中を烈火の如く嫌っており大変面白いのだが、記事を圧迫するのでここでは引用しない。兎に角インターネットも程々に、ということなのだ。これは本を読むのが偉いとかの価値判断は含意しない。インターネット的な内側の世界で生きれるならそれもまた生き方だけれども、わたしのように、自分を大切にしたい寂しがり屋は、自分自身の内面世界に居場所を作りつつ時々インターネットに顔を出すという程度にしておこう。内面を育てるのは読書である(昔の知識人っぽい発言)。あと音楽もいいよね。みんなBUMPを聴いて藤原基央遺伝子を受け継いでくれ。
 ちなみにわたしはツイッターで話しかけてくれれば大抵ニコニコお話しますよ。

 そんな所で。おやすみ〜。

二月二十日

 20200220である。だからなんだという話だ。

 今日はそれなりに有意義だっただろう。対象に意義があると言えるのはどんな時かと考えると、少なくともそんな益体のないことを考えている時間に意義は無いと言える。
 具体的には英語と地学の勉強をした。地学は先日買った『ひとりで学べる地学』(果たして大人数で学ぶ科学があるのだろうか? 理解とは常に個人のものだ)で速習しながら適宜『地球惑星科学入門』に当たって知識を補充している。余談だがフランス国土地理院の物理、数学、地学にもたらした功績は素晴らしいものがあるんじゃないだろうか。もう少し科学史の中で讃えられても良い気がする。


 大学に入ったらぼっち飯ちゃんとできるのか不安だ。大学は小中高のようなファッキンホームルームがない点で文明的進歩を遂げておりさすがは高等教育機関だという感があるのだが、その点あまりぼっち飯できる空間も想定できない。好きな人以外と学校でご飯を食べる感覚がいまいち分からない。ラーメン屋とスイーツ店なら大歓迎なのだが。
 でもまあ「酒飲めればOK!!!!」のノリの頭ストロング系アルコール人間になれば問題なさそう。大問題だろ。


 人を好きになるということを考えるときにどうしてもフレームとして村上春樹的、藤原基央的な視点が入ってしまう。ぼくらは気付かないうちに互いが互いを埋め合わせるような100パーセントの運命とすれ違っていて、けれども互いがそれと分かるのは難しい。そういうスタート地点から入ってしまう。
 落とし穴の中の幸福については『いたいのいたいの、とんでゆけ』をまず参考文献として読んでいただいた上で話したいのだが、ああいうのはある種「心が動かされないならそれはそれで幸せ」という類の本で、ぼくもそういう自分の耳元をくすぐるような小説を書きたいなと思う。思うのだがぼくよりよほど上手く書いてしまう人が世の中にはいるので悲しい。

 んー書くこと〜〜〜。ねえ。この辺にするかぁ。最後の段落で書いたことはツイッターで言ってたことの焼き直し&まとめみたいなものなんですがもうちょい綺麗に整理できたらもっかい書こうと思います。おやすみ〜。