三月十二日

 人と会ってケーキを食べ、本屋とニ○リを巡った。ケーキは美味しい。家で再現できないタイプのケーキなので、そういう意味でも足を運ぶ価値がある。

 本屋で買った本はこちら(画像クソデカですが許してください。ログアウト状態のためツイッターのリンクを引っ張る方法が取れない)。
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ヴァレリーの本は立ち読みして良さそうで即決。ボキャビルはそろそろやりたいな〜と思ってたので買いました。

 ニ某で本棚と椅子を見ました。割と楽しかった。本棚を買うために本を買うのをセーブしないといけないのは本末転倒なのでは、みたいなどうでもいいことを話しているとなんとなく高校のときを思い出しました。ゲーミングチェア、単純に座り心地の観点から良。デザインが微妙だが。

 これからどうするかまだあんまり決まってないのですが(ケーキ屋は早く連絡を返してくれ)、勉強に関して、とりあえず語学はやって損しないのでずっとやろうかなと思います。あとは先輩との複素解析の勉強と、枡田代トポを読むくらいでしょうか。今のバイト早く辞めたいので絶賛募集中です。そういえば今日家庭教師のトライに誘われた。あんま自分向きじゃないなと思いつつも本当に立ち行かなくなったら選択肢に入れようと思います(この少子化社会の中で人手不足を起こしてるらしい、マジかよ)。

 大学院にはいかないので、ぼくの入試との戦いは概ね負けという形で終了しました。就職はもう疲れたくないので、極度にブラックでない手取り 300 万くらいを狙おうと思います。それくらい望んでもバチは当たらなそうじゃないですか?

三月までの日記

三月十二日

  • 「『とは何か』系のものばかり本棚に並んでそう」という悪口を考えたのですが、使う機会が無い。
  • 社会は難しい。自分が向いてないということしか分からない。
  • ぼくっていつになったら救われますか?

三月十一日

  • 自分の悲しみに対して他人が自明な議論をやっているとこんなにも虚しい感情になるのかと気付いて、自分にも人間らしさがまだ残っているんだなと思いました。
  • ツイッター、見てると吐き気がするのでログアウトしました。
  • 今更ですが、「一月の日記」という名前も変なので変更しました。
  • 本気リストカットで意識不明になるには 40 分ほどかかるようですが、太腿を切ると 4 分で意識不明になれるらしいです! 4 分! 魅力的ですね。問題は太腿を切るってかなり怖いことでしょうか。でも 4 分耐えれば意識不明でどうでも良くなると思うとこれはかなり有用な自殺方法な気がしてきました。
  • 自殺って案外即死できないよ、という内容のページがよくヒットするのですが、なんとなく「つらかった部活も終わってみれば楽しかった」現象で死ぬまでの時間もやり過ごせないのかなと思ってしまいます。あと即死できないならできないで、最後に一番"生"を実感できるのちょっとエモいですよね。
  • そう思うとやっぱり一番の懸念は自殺に失敗した場合なんですよね。練炭とか失敗したらかなり重い後遺症になるらしいですし(そもそも車も免許もないので練炭はやる可能性低いですが)、首吊りとかも下半身不随とかになるとかなり嫌です。太腿を切るのはその点失血死なので助かる可能性が低そうなのもちょっと魅力的ですね。OD は「取り返しのつきやすさ」が論外かなと思います。

三月九日

  • ぼくは結局のところ学問をやってるような人間が嫌いなんだなと思いました。

三月八日

  • 議論がしたいなら相応の SNS を選択するべきであってツイッターなんかで議論をしようとするなという話なんですよね。幸せにならないので。

三月七日

  • その場で採決して行くラーメン屋を決めたり本屋に行ったり解散したりするコミュニティに属しているため、たまに前もってケーキ屋に行くなどの予定を立てると何か息が苦しくなる(嬉しくないわけではなくむしろ結構楽しみですらあるのだが、それとこれとは別問題なのである)

三月四日日

  • 「夏が来る……」という気持ちになったのでヨルシカの「夏草が邪魔をする」を買ってしばらく聴いていました。ストーリー性というか、アルバム単位で聴くことに価値を置いた構成ですごくいいな、と感じました。夏といえば「ほんとうの夏」に到達した Orangestar がいるわけですけど、ヨルシカもそういう「ほんとうの夏」の領域にいますね。
  • Orangestar の夏が雑音と暑さと名前の付けられない衝動の夏とすれば、ヨルシカの夏は透明で、暑さの中に感じる一瞬の涼しさ、みたいなところがあります。
  • 爽やかロックチューンの顔をしながら、歌詞は夏の景色の中にいる君をいつまでも忘れられないという執着の歌ばかりなの、n-buna らしい(良い意味の)気持ち悪さで最高です。前半はポップに、後半は音数の少ない静かな曲とアンサーソングという小説的な構成も綺麗です。いいアルバムだ……。

二月十七日

  • 人生がつらくなったり元気になったりしている。
  • 一日に数回、本当にあらゆることが不安になって焦燥感に殺されそうになる ぼくってどうすればいいですか?

二月五日

  • 百鬼あやめさんがダサT愛好家なの、かなり"イイ"よなと思います。BOOTH とかで百鬼あやめさんのダサファンTシャツとか出たら買うんですけどね。出ませんかねホロライブさん。

二月三日

  • Look at the Sky を聴きました。心を掴むのがうますぎる。

二月一日

  • 「灼け落ちない翼」、良い曲なんですよね。「Charlotte」本編は賛否ありますが、麻枝准にこの歌を書く機会を与えたことが偉大だと思います。

一月三十日

  • 今井むつみ『英語独習法』、なかなか面白いです。我々は「意識していない情報」には驚くほど鈍感であること、言語使用には水面下で働くスキーマが重要であることなど、英語学習で表立っては触れられてこなかった認知についての知見に触れています。例えば、「我々(英語非母語話者)の書く文にはなぜ「英語らしさ」が欠けてしまうのか?」という問題を考えます。この問題に対して、従来の学習法は「やりやすいミスや変な表現」を列挙するという各論的なものが主でした。本書ではそうした小手先の知識ではなく、そうした違和感を生んでしまう「仕組み」を解説しています。日本語というのは動作を副詞で修飾するように文を作ります。一方で、英語は動詞と前置詞によって文の中心を表現します。こうした語彙化と構文化の差は、二つの言語のスキーマの差です。つまり我々は、普段無意識に使っている日本語のスキーマと英語のスキーマのズレを、認識してチューニングしなければいけないわけです。これは各論的な話を100や200暗記する学習法は認知の観点からはコスパが悪いことを示唆します。このように本書は認知や言語獲得の視点から従来型の学習を解体し、新しい学習法を提示しています。「英語脳」などと言わない質実剛健な本が出たことをうれしく思います。

一月二十四日

  • 白金ディスコも無ェ(Full ver)を久しぶりに聴きました。これは本当に天才だと思います。
  • Angel Beats!」、細部につっこみ始めたらもちろん色々ありますけど、やっぱり面白いアニメとして不動の地位があるよなぁ、と思います。思い出美化も加わってるんでしょうけどね。日常パートの楽しさは今でも変わらず響くものがあります。

一月二十三日

  • 「勇侠青春謳」、凄い曲ですね……。
  • 久しぶりにニコニコ動画のそれも10年以上前の動画を観て非常にニコニコしてしまいました。
  • 百鬼あやめさん、可愛い。
  • シスター・クレアさん、名取さなさん、YuNiさん、猫又おかゆさん、戌亥とこさん、Hana Macchiaさん、えま★おうがすとさん、竜胆尊さんの声が好きです(改訂版声のオタク的好きな声のVランキング)。なんとなく好みが見えるんですかね。落ち着ける声が好きです。
  • 先ほど少し外に出たら雪が降っていてテンションが上がったのですが。その後もう一度見たら雨に変わっていました。東京の天気は不甲斐ないですね。

一月十五日

  • エンディングノート」、あぁいいなぁという感情が溢れすぎて散歩中に「あぁ」と口に出てしまった。
  • 「yuanfen」全曲聴きました。嘘偽りなく全曲が良いモノだと言えるアルバムでした…………ヤバ…………。
  • ブログのキーワードリンク(単語に下線が引かれるやつ)を消しました。読みやすくなったと思います。
  • マークミスとかしたらその足でモノレールに飛び込む。
  • ツイッター、ちょっと戻ったら「俺は一人で飯も食えるし旅行もできるんだが?」といった奇声を発するイキリオタクが跋扈しておりあまりの醜さに全てのアカウントでログアウトしてしまった。
  • どうでもいい話ですが、ぼくは「七転八起☆至上主義!」の「人生急ぐ理由も別にないし」と「後悔ならやった後にすればいいし」という詞が好きで、高校のときからずっとこれで生きてます。

一月十四日

  • 昔から「なりたいもの」とかが無かったなぁ、と思う。卒業文集とか真面目に書こうとすると苦労するタイプでした。
  • 反出生主義は個人的な感情として「小学校からずっと抱えてるから哲学的にどうとかの範疇にない」というところがあります。面白くない結論ですけど「辛いものは辛い」と同じくらい「説明も同調も啓蒙も必要としてない主張」という感じがします。もちろん反論/擁護のために哲学的議論を積み重ねるのも良いと思いますし、ぼく自身そういうことを考えたりもしますけど、究極的には言葉遊びにしかならない(思想を変える力にはなりえない)よなぁ、と。
  • 「罰と罰」聴きました。これもヤバいですね……。
  • yuanfen、順位をつけるのがかなり難しいんですがどれが好きかというと1位が「KILIG」、次点で「漫ろ雨」、どれが驚きだったかで言うと「罰と罰」が1位かなみたいなところがあります。
  • 毎曲毎曲が良すぎて「えもぉ」て呟くだけのオタクになてしまう。

一月十三日

  • KILIGの2回目のサビの「元には戻れない」の周辺の音がよく分かんない…………音楽勉強したいですね。良いものをもっとちゃんと良いものとして受け止めたいっていうか、こっちも余すところなくyuanfenを分かりたいんですよね……。
  • えま★おうがすとさん、声が好みです。
  • 「漫ろ雨」、聴けば聴くほどよさが出てきます(このゆったりとした疾走感いいですね)。なんとなく2005年くらいのアニソン感があります。なんでだろう。
  • JAM GEM JUMP!!!を聴きました。ジェムカンはぼくが前にその圧倒的歌唱力をベタ褒めしてた水科葵さんが参加しているので聴いてみましたが、これはすごく良かったです。

一月十二日

  • 「聴いて」は本当に繊細で美しいですね。ラスサビで鳴ってるピアノで感情が爆発します。大好き。
  • 鹿乃さん、表現力が高すぎませんか?
  • 「漫ろ雨」も聴きました。音楽って本当に人間の精神に直接訴えて来るというか、なんでしょうね、音楽を感じるのってプリミティブな感動なのかな、と「yuanfen」を聴いていると思います。人間の感情も扁桃体がコードを鳴らして制御してるとかなら面白いんですけど。
  • イヤホン良いやつに買い替えたいです。
  • 「yours」は聴き進めるうちにだんだん複雑な世界になっていてオ゙オ゙オ゙秀和! という感じでした。
  • ずっと昔(誇張表現)から欲しいつってるイヤホンにMACBETH II Classicというのがあるのですが、問題は69300円もするところですね。他にはfinalのHeaven V Agingとかオススメされがちですね。MACBETHに関しては視聴させてもらったときに良さみに打ち震えてしまったので正直お金に余裕ができたら買いたいものランキング第一位です。
  • 今使ってるイヤホン、一次元的というか、縦に色々な音が鳴ってるだけって感じなんですよね。安いやつなんでしゃーないしんな文句言うならさっさと良いイヤホン買えやボケって話なんですが。

一月十一日

  • 「KILIG」を聴きました。こちらを大切に抱きしめて離さないそんな感じの曲で、とてもよかった(朝から幸せな気分になりました)。
  • 「光れ」で鳴ってるタララッタララッみたいな楽器、あれなんでしょうね。
  • 人生に新しい音楽があると気分が上がります。
  • スキーって冷静になるとクソ寒い雪山を滑ってるだけなので何が楽しいのか分かりませんね。ぼくも何度か行ったことがありますけど正直言って最初の10分で飽きるみたいなところがありませんか。体力が無いだけ了解。
  • ツイッター、なんであんなキモいSNSでキモい人間とキモいコミュニティの中でキモいコミュニケーションを楽しんでいたのか分からなくなりました。

一月十日

  • 今日は鹿乃さんの「yuanfen」を買いに行こうと思っています。
  • 数理論理学に興味があり、鹿島さんの本を読もうかな、という気持ちがあります。もちろん受験が終わってからですが……(なんにでも「受験が終わったら」が付くのがいやですね)
  • 「yuanfen」を購入しました。この形式にしたのは、はてなブログにおける画像アップロードが(直張りにしてもリンクを挿入する形式にしても)面倒だったことが理由です。
  • 「yuanfen」一曲ずつ聴きたくて、まず「光れ」を聴きました。秀和とNorは無敵でしょ。Norっぽいアレンジでも明るくなりきらないこの感じがめちゃくちゃ合ってますね。

一月九日

  • ダラダラと生活に顔を出してくる感染症が一番腹立つので、(医療従事者には申し訳ないですが)人類を終わらせるならさっさとやってほしいですね。
  • デザインを変更しました。こっちの方が読みやすいし可愛いですね。
  • 鹿乃さんの「コンパスソング」を聴きました。ラスサビの「新しい道を見つけた」が大好きです。ダンスも可愛い……。
  • ディーン・フジオカさん、あまりにも眼鏡が似合うイケメンすぎてこんな感じのイケメン数学徒ならよかったなぁと思った(気になる人は「ディーン・フジオカ 眼鏡」などと検索してみよう!)。現実はカメムシであり、残酷だ。
  • ぼくはコンタクトにする労力と天秤にかけて消極的に眼鏡を選択しているだけで、眼鏡自体はかなり疎ましく思っている(とはいえ知人いわく裸眼では悲惨なので眼鏡があるおかげで多少マシになっているらしい)のだが、それが逆に眼鏡が似合う人間に対する過剰な執着を生んでいる。実際、ぼくの理想のお姉さんは眼鏡をかけている。可愛いね。

一月八日

  • クレアさんのバイノーラルは隣にいるというよりクレアさんちの猫(実際にはもちちゃんがいますが……)になったような感じでいいな、と思います。
  • 共通テストも近いのにここ最近ずっと就寝時間が遅くなってて険しいものがあります。
  • 名取さなさんが凸待ちに凸るのを観てると非常に声がクリアなので、配信環境にものすごく気を使ってるんだなぁと思います。
  • 宗教団体化が始まってる一蘭、響きにかなり迫力があるので見てみたいのですがあまり行く機会がないですね。
  • 19時47分現在、猛烈な腹痛に襲われていて大変険しい状態にあります。

一月七日

  • 実は「リラックマとかおるさん展」に誘われたものの色々あって互いに見合わせたのだが、東京が感染者数でバンバン新記録を樹立しているのを見るとまぁ正解だったなという感情になりました。
  • 東大は数え上げ系の問題で離散的な中間値の定理を出題するのが好き(N=2)なのですが、実は離散的な不動点定理でも解決できます。そういう種類の不動点定理を調べてたら、一般に完備束 Lに対して写像 L\to Lが単調なら不動点を持つみたいな結果が出てきました。不動点定理といえば解析のもの! という偏見があったので意外でした。
  • 日付が変わったので、寝ます。

一月五日

  • 面白いパズルをプレイしたので、布教します(怪しいリンクではないです)。

十月二十日

 受験に真剣。
 ほんまか?
 多分現役のときより真剣。何よりも高校とかで消耗しないのがいいと思う。不本意入学大学のオンライン講義は適当に流してレポート書いておけばS取れるので神。現役のときより宅浪の方が最小値でも精神が安定してるのどうかと思うけど。

 若い頃というのはイキることが好きだし、それが実際に力を伸ばす原動力になる。だからまぁ、中学生くらいまではそういうスタンスで居てもいいと思うのだが、これを高一を過ぎ辺りまでやってると、ただ「イキって」いたのが次第に「下に見れそうな他人の欠陥探し」という行為にすり変わってくる。本来は自己肯定にも繋がっていたはずのイキりが、虚栄心を慰めながら実際の自己肯定感は摩耗していく空しいだけの人間になる。すり減った自己肯定感はさらなる欠陥探しのターゲットを求めていく悪循環だ。そういう人間は何人も見てきたし、他でもないぼくだってそうなりかけたことがある。ハッキリ言えばこれは本当に無駄な行為である。ツイッターでエロ絵を探してシコって寝た方が百倍有意義だ。当たり前の話だが他人をバカにしたところで自分の力はつかないし、欠陥探しゾンビのさらに恐ろしいところは、自分が上位のように錯覚するが自己肯定感は削られていて向上心は枯れ果て、虚栄で築いた砂上の楼閣に引きこもるなおタチの悪い人間になることだ。抜け出すためには一度自覚的に「空しい自分」を見直さなければいけない。
 ってうちの庭によく来る猫が言ってました。
 人生で大切なことは猫から学べますな。

 欠陥探しゾンビの皆さんを救済する素晴らしいゲームが「アイドルマスター シャイニーカラーズ」である。やれ。

 東大英語、英文は概ね簡単に読めるようになってきたのであとはいかに速く解くかということに帰着されてきた感じがする。本当は誰か英語力信頼マンに添削を依頼したいけど居ないから俺が英語力信頼マンになるしかねぇな!(嘘)
 数学は受験最適化で処理をできるように、かなぁ。理想的には英数で稼ぎたいんだけど。

 そんなところ。


 エッセイは次回(これを次も言ってそう)。

十月三日

 あまり書くこともないので書評を書いた。
 本を読むときにクソみたいにうだうだ考えを広げてしまう癖があるんですけど、そういうのを多分に含んでるので文量の割に内容は薄い。

書評コーナー

  • 『批評理論入門』(廣野由美子,中公新書

 本書はメアリ・シェリーによる文学作品『フランケンシュタイン』を題材に、文学技法/批評に関する入門的な解説を目標としている。理論に関する本を読んでみても「結局これは何をしたくて何を語っているの?」という印象が強かった、という経験は文学理論に限らずあるだろう。その点本書では『フランケンシュタイン』を一つの幹とし、種々の理論や批評を実際に『フランケンシュタイン』へ照射して見せることで、いわば「読みの実演」をしている。理論解説の"深さ"は他書へ譲り、代わりに理論を実際に活用する様を伝えるという姿勢は、入門としてとても優れているように思う(哲学の本では中島義道『哲学塾の風景』がこうした方法を取っている)。
 今回はこの本についてぼくなりの書評、というより思ったことやこれから参考にしようと思ったことなどを纏めるので、この日記を読んでいる人達は読んでない本について堂々と語れるようになるだろう(勿論、この日記から本書を読んでみたいと思ってくれたらなんか嬉しい)

小説技法篇
 本書はテクストそのものの技法を解説する「小説技法篇」と、文学批評の種類や歴史を概説する「批評理論篇」に分かれている。小説技法篇で興味深いのは「焦点化」「提示と叙述」「時間」「イメジャリー」「間テクスト性」の議論である。ぼくはさらに最初の三つと残りの二つを緩く括ることができると感じたので、主にその大別にしたがって各々の議論を纏める。

「焦点化」「提示と叙述」「時間」
 文学理論における「焦点化」は、元々は「視点」という言葉で曖昧に扱われていた概念を「誰が語って/見ているのか」という問題に切り分け、「見る」という行為の規定として導入された。ここで「焦点化」は、単なる視覚情報に限らない知覚や認知、いわば「意識」とも言うべき広い概念を指す。またテクストで焦点化を行っている人物を「焦点人物」と呼ぶ。すると我々は語りと焦点化を分割して議論できるようになる。焦点人物も語りも三人称の「全知の語り手」である場合や、語りは「全知の語り手」だが焦点人物は物語世界の中、と言う場合もある。特に面白い手法は「多元内的焦点化」と呼ばれるもので、これは物語の中の出来事を焦点人物を変えて繰り返し語ることで、出来事について様々な角度から情報を提示する、という手法である。思い返せば様々な小説や漫画で使われているのだが言語化により気付きを得たポイントである。この技法、主人公の知らない情報をこれで読者にだけ伝えて人物の動きにもどかしさやアイロニーを与えるのも可能になるし、信頼できない語り手を活用することもできるなど、単純ながらとても広がりのある技法だ。作品に縦方向の重層性を出す際に使われているよな、などと思った。
 「提示と叙述」は、本書によるとウェイン・ブースが導入した区分で、作品世界での出来事の記述の形式に関するものだ。「提示」とは字の如く、語り手の介入が少なく出来事をあるがままに記述すること。最も純粋な提示は(全知の語り手による外的焦点化の)登場人物の会話の記録である。「叙述」は全く逆、語り手が前面に現れ出来事や登場人物の心理を解説してしまうものだ。ぼくはこの節を読みながら、小説にはテンポがあって、それは細かい語の選択からプロットなど大域的なものまで様々な要素により決定されるけど、一番表層でこれを左右するのがこの「提示と叙述」なんじゃないかということを考えた。出来事を常に提示的に書けば余りにも冗長で反復も目障りなものになる。かといって全て叙述的に簡潔な説明にされては小説としての臨場感もない。提示と叙述は対等で、読み手に与える情報量の調節、ひいては作品の淀みある流れを作るのに有効に使えるのだと思う。
 「時間」の章を読んでいたら、「物語の速度」という項に「提示と叙述」でぼくが考えていたことが出てきた。ジェネットによる物語の速度の分類は「省略法」「要約法」「情景法」「休止法」の四つなのだが、いずれも提示と叙述の技法が使われている。個々の詳しい説明は省くが、面白いのは「休止法」でこれは語り手が物語の速度をゼロにして語り手の特権として情報を示す手法なのだが、これはかなり小説に固有といってもいい技法ではなかろうか。「提示と叙述」に広がりを感じる章である。
 以上は本書の小説技法篇でも特に純粋な技法の解説で、あまり意識的に言語化したことのない内容で興味深かった。それに比べると次の「イメジャリー」「間テクスト性」は同じ技法の中でも批評寄りの内容である。

「イメジャリー」「間テクスト性
 ある要素によって視覚的映像などが喚起される作用を「イメジャリー」という。イメジャリーには下位区分として「メタファー」、「象徴」、「アレゴリー」があるのだが具体的な説明は省く。本書では『フランケンシュタイン』で「月」や「水」といったイメジャリーがどのように使用されているのかを解説している。対象に対するそうした様々な(イメジャリーを引き起こす)意味を付与するのは人々の言語使用、特に文学などであるから、これは次に述べる「間テクスト性」にも関わってくるように思える。
 文学テクストと他の文学テクストの間の関係性を「間テクスト性」という。これは作品は常に先行する作品から影響を受けている、という発想に基づくツールで、作品に意識的/無意識的に吸収された他のテクストを読み取りまた元のテクストの解釈に逆照応するというふうに用いられる。本書では『フランケンシュタイン』で本文に言及されているミルトンの『失楽園』から、『フランケンシュタイン』が神・アダム・サタンの関係を複雑に変形させながら『失楽園』を多重に反響させていると分析しており、間テクスト性という道具の強さを見せつけられる。
 以上の二つは技法と批評の中間にある、というぼくの感覚はなんとなく伝わるだろうか。
 本書は常に技法の例を『フランケンシュタイン』から引いているため、実感を失わずに理論の概略が掴めるというのがいい。

批評理論篇
 「批評理論篇」では「ジャンル批評」や「フェミニズム批評」といった批評論を、『フランケンシュタイン』から実践を挙げながら紹介する。ぼくは作家をテクストから一歩引かせる方が(少なくとも「読み」の行為としては)適切だと考えているので、過度に社会的、作家論的に読みを広げる「精神分析批評」や「フェミニズム批評」、「マルクス主義批評」の姿勢を支持することはできないのだが、これらの中にも解釈のヒントとなる部分は感じられたし、また批評理論を概観するという意味ではやはり読んで損はない。個人的な白眉は「読者反応批評」と「文体論的批評」である。
 「読者反応批評」はテクストに積極的にコミットする(理想的な)読者の想定の上で「テクストが読者の心にどのように働きかけるか」ということに力点をおく批評方法である。ぼくはこの章を読みながら「アイドルマスター シャイニーカラーズ」というゲームを想起した。このゲームでぼくらはプロデューサーという形でアイドルと自分との物語にコミットさせられ、さらに偶然の左右するイベントや自身の選択肢により唯一のストーリーを構成させられる。小説ではないが小説に近いノベルゲーム性のあるシャニマスの考察には、読者反応批評がヒントになるのかもしれない。
 「文体論的批評」は読んで字の如くテクストを言語学的要素から読解する研究方法である。『ヘミングウェイで学ぶ英文法』の著者の一人倉林秀男さんは確かこの辺の領域を専門にしていた気がする。なるほど『ヘミングウェイで』で解釈のポイントとして提示されていた内容は文体論的批評に基づいていたのが多かったんだな、みたいなことを思った。正直な話、文体論的批評が今一番より勉強したい批評だと思う。

まとめ!
 総じて各項目の説明は決して詳しくはない。まえがきの「批評理論を知っているからといって、小説が読めるようにはならない。具体的な作品を抜きにして理論について語ることは、空しい。」という言葉が端的に示すように、本書の狙いは具体的な読みの実例を叩き台に技法と批評の両面から読みに必要な理論と直観について、そして小説とは何かという問題を削り出すことであるからだ。この狙いは(少なくともぼくのような文学について無知な人間に対しては)大成功しているといえるだろう。

九月四日〜九月八日

 四日から八日までの日記から抜粋するので、普段の日記もどきより日記らしく日常の思考などが出てる。

九月四日
 今日は心身の回復のために勉強に類することを何もしない日ということにした。気が付いたら水を4Lくらい飲んでいた。
 村上春樹の『一人称単数』を読み終えた。最初の二つは正直微妙だったが「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」と「ウィズ・ザ・ビートルズ」、「品川猿の告白」がとても良かった。「ウィズ・ザ・ビートルズ」はちょっと良すぎて気持ち悪くなる。思想的には「4月の」の系譜っぽいけど春樹が描きたいものをかなり詰め込んでいた。

九月五日
 遠出する機会も機運も出ないので、遠出しなきゃ買えないような本をポチってしまおうとS. Pinkerの”The Sense of Style”を買った。邦訳を待つという人もいるが、英語について(”The Elements of style”以上に)言語学認知科学的知見を援用しているわけだから、未読のぼくですら邦訳は至難の技であることは容易く想像できる。英語のスタイルブックは英語で読むべきだろう。
 ツイで読んだ評判しか知らないが面白そう。
 哲学に悪文が多いというのはぼくも認めるところである。J. S. Millなんて内容の巧拙に関わらず文として極めて悪文だ。ツイで評判を読んでたら、この本にGeoffrey K. Pullumの話が引用されている、というのを見てPullumに見覚えあるなと思ったらCamGELの著者の一人だった。
 実は明倫館にかなりガチめに欲しい本があるのだが、本当に行くタイミングが掴めず、このままだと「明倫館日和」という短篇が書けてしまう。
 三宅熱力学と清水本を(三宅メインで)追ってたら高校の熱力学がかなり見通しよくなってきたので楽しい。
 『今はじめる人のための短歌入門』に、どうにも短歌が上手くならない人達を観察すると、どうも自分より短歌が好きではないことが分かったという一節がありちょっと笑ってしまった。

九月七日(9/8追記)
 究極の人生逆転ファンタジー(585)

 マジでこれしか書いてなくて笑った(何これ?)

九月八日
 海外の「知性系」人間が人類史やエビデンスに基づいた啓蒙についてやたらと本を出す現象なんなのだろうか。Steven PinkerしかりJared DiamondしかりHans Roslingしかり。米国に進化生物学ブームが到来しているのか。
 Pinkerの”The Sense of Style”が届いた。Pinkerに関しては言語系以外の本はあまりアテになるものではないし内容にもことさら興味が無いのだが、言語に関してはまとも。いくらChomskyの弟子だからってムーブまで真似しなくて良いのにな。ところで洋書のペーパーバックを見るといつも日本の文庫本の質の高さに驚くのだが、なぜ洋書はああも紙が劣悪なんだ。物理書籍主義のきらいがあるので日本の出版業界には頑張ってほしいところである。
 先日、といっても結構前だが、哲学の講義のレポートを書いた。テーマは基本的に自由で、哲学教授の数学認識の雑さに腹を立てたぼくは数学に関して書いた。ここまではあらすじでどうでもいいのだが、最近この「数学について語る」行為の最中にぼくの感じた気持ち悪さが、ぼくに十年近く付き纏う「フェイク」の問題と地続きであることに気付いた。以下の文は、気持ち悪さを記憶してしまいがちなぼくの、細かい自己嫌悪を抱えないための清算行為と取ってもらえばいい。

 レポートを書いている間、もっと言えば数学を「外」から語る言葉を書く度に、下らない批評だ、という言葉が降って湧いた。「内側」、ここで言えば数学を第一にやっている側、から書かれていない語りは本当に空虚なのだ。創作を例にとれば、小説を書く側に居ない人間が小説について語ることがどれだけ空虚か、といえば分かりやすいだろう。ぼくにとってはそういった行為は全て「フェイク」に思えるのだ。もちろん無意味とは言わない。だがそれとは独立に、ぼくはこういう行為が内在的に抱える偽物さについて自覚的であれ、という主義を抱えている。
 言語によって対象を語る行為は、たしかに重要だし、またそれが内側から起こるものであれば尚のこと「理解」の過程で重要であることは言うまでもない。方法論を言葉にすればそれは一種の普遍性を纏うし、もっと具体的な例で言えば学問ではイメージを言葉(数式なども含む広義の「言葉」)に落とし込む能力が必要になる。そもそも我々の思考が(伝達可能な情報になるには)言語を必要とする点で明らかだ。
 心理学でいえば、勉強などが得意な人間が持つ感性を「方略的知識」というが(ざっくり)、それをスキーマ(ここでは手順とか典型とかの概念と思ってもらえればいい)として言語化することは方法として極めて有用である。
 要するに、学問に関してその内部から語ることは大いに推奨されるべきだし、数学の人間からそういった趣旨の本が出ることもぼくは良いことだと思う。
 だが学問を、それも哲学の俎上で「外」から語る行為が果たして「内」にどれだけの効用をもたらすか。なるほど学問は現代社会において浮世の地位には居られず、常に外からの視線に晒されている。それを客観的に捉えることは(サイエンスコミュニケーション等の観点から)学者に要求される能力だろう。だがそれは「外向き」の学問にしか効果を与えない。ましてや「外」の人間が、外からいくら形相を語ったところで本物の言葉にはならない。ぼくがここで言っているのはツイッターで翻訳すれば「エアプが雑言及するんじゃねえ」のより敵に回す範囲が広い話だ。G. H. Hardyは『ある数学者の生涯と弁明』の中で「解説、批評、鑑賞などは二流の人の仕事」だと述べている。ぼくは現代において学問の啓蒙活動は(それが第一ではないにしても)学者の義務であるように思っているし、ゆえにこの言葉を手放しに認めるつもりはないが、大意としてはこの気持ちがある。ぼくは「内側」で「本物に」なろうとしない限りはどんな言葉遊びもフェイクだと思うし、今書いているこの文章そのものがぼくがフェイクであることの証左になっている。そういう意味でこの違和感は語るという行為の偽物さに起因しているのだな、ということに気付いた。気持ち悪い。ちなみにレポートには「数学はなぜ哲学の問題にならないのか」ということを論じたのだが、上の「清算」と合わせてぼくの衒学雑言及と自分への嫌悪を推し量ってもらえたら幸いである。

(注釈)ぼくが「フェイク」とか「無能」とか語気の強い言葉を使っているときは基本的に自分に向けた言葉の自傷なので、これでぼく以外の個人を傷付ける意図がないことは断言しておく。もちろん自傷仲間が増えたら面白いので傷付いたら言ってほしいのだけれど。

九月三日

 前回の日記を書いてから一ヶ月近く経っているし、書くべきは日記というより"月記"なのだろうけど、ぼくはひと月も昔のことを語れるほどは記憶力に自信がないためここ数日のことを書いて済ませる。


 インターネットはやはり1の利に対して983716482くらい害があるのでこの日記とともに離れようかな、と思う。むしろこの日記を継続しようかなというくらいだ。


 さて日記。書誌情報は脚注にまとめて示すことにする。
 先日(昨日)横槍メンゴ『一生好きってゆったじゃん』*1という短編集を読んだ。横槍メンゴはぼくの好きな漫画家の一人なのだが、これは横槍メンゴを(ぼくに対して)より好きにさせるには十分すぎる短編集だった。ツイッターでも書いたように、この短編では人の「何も無さ、欠落」と「祈り」、それも「歪んだ祈り」が様々なイメージ(イマジナリー天使、かわいさ、不倫、etc...)に宿りながら描かれている。「一本花」では綺麗で創造力のある"憧れる"同級生に対する一方的な「祈り」が、そして完璧に見える人間の「欠落」が、そういう祈りが生涯の(ある種の)「呪い」と化すことが描かれる。ぼくのような拗れた人間には何倍も刺さってしまう話だった。個人的には「Stand by you」「「かわいい」」「一本花」「南無阿弥だいすき」がお気に入りである。横槍メンゴの言葉選びにはときにすごく響くものがある。
 今は先輩に誘われてあるトポロジーの本のゼミに参加しているのだが、そこで学部3,4年の知識や能力にものすごく刺激を受けた。自分の数学に対する(精神的な)身の振り方のようなものを考え直す契機にもなった。それにゼミの内容も面白い。最高。
 哲学書の読み方、というとそんなもの無い! と怒られそうだが、数学書を読むにはそれなりの訓練が必要であるのと同じように哲学書を読むにも訓練というものが必要であり、そういった経験知を指して「読み方」と言っているのだと納得してほしい。「読み」という語の語義を明確にしようとするとこれまた面倒な言葉遊びの渦に飲み込まれてしまうが、ここでは「読み」=「誤読しない」と逆照応的に思ってもらっていい。さてわざわざ長い導入を書いたのは中島義道『哲学塾の風景』*2と伊原康隆『志学 数学』*3の共通点に関して語るためである。最近『志学 数学』の最初の方をよく読んでいたのだが、そこに出てくる「(中略)それ以上に大切なのは一人で本格的な書物を考え考え読むこと」「ゆったり、ゆっくり」「くっきりとした理解」といったキーワードが印象的で、中島が『哲学塾の風景』の中で(明示的には言ってないものの、)「テクストの記述を慎重にゆっくりと読解していく」ということをまさに実践していたり、塾生への問いでは「その答えはカントの原文をちょっと変えて繰り返しただけじゃないか」「そうなんだが、それはどういう意味か、自分の言葉で言いかえてくれないか」という返答をしていたことを思い出したのだ。畢竟するに両者は「咀嚼されたもの」としての理解を要求しているわけだ。咀嚼のためには徹底した自問自答と根気が要求される。伊原はこれを数学に対して「考えながら読む」「数学は「自分の頭の中に生命をもって生長していくもの」に少しづつなっていく」と表現している。よく噛んで食べるというのは健康に良いわけだが、なるほど勉強においても有効なようである。これはかなり学問で普遍的な方法であるように思う。ぼくがアウトプットをできるだけ意識しているのもここにあり、速さや量を誇る人間はフェイクだという思いがあるのだ(これは自戒も兼ねている)。研究となるとそうはいかないだろうが、勉強はゆっくりでも透明な理解を目指そうというところだ。
ちなみに誤読に関しては『哲学塾の風景』の解説を書いている入不二基義の『哲学の誤読』*4もオススメである(蛇足)。
 寺山修司の『青少年のための自殺学入門』は結構面白かった。
 『現代英文法講義』を読んで情報構造について纏めたいという感情があるけどまだ着手できてない。
 入間人間の『安達としまむら』9巻は10月10日発売予定!!!! ウオオオオ!!!!
 最近ラーメンを食べていない。「具体的には神泉のらぁめん屋うさぎ」という銀河系で最も美味しいラーメンを提供する店に行けていないのだ。人生が始まらないとはまさにこのことだろう。本当に食べたい。

 受験の話。
・英語は『ヘミングウェイで学ぶ英文法』が楽しい息抜きになる。とても良い本。受験英語の息抜きとして英語が勉強できるのはいいよね。
・数学はまあもう過去問をひたすら解く感じである。単調。
・理科は知識の整理と問題どっちもやるのである意味一番大変。頑張る。
・国語と倫政は置いてけぼり。
 なので英語のウエイトを理科に割くべきなんだよなぁ。分かる。でも英語楽しいんだもん。


 まあこんなところです。受験頑張るぞ〜〜💪 現役のときよりやる気ある。

七月二十三日

1.はじめの言葉
 インターネットをしばらくやめていました。インターネットをやめると本当に快適というか、最初のうちは意識的に「ツイッターをしない」をしていると、だんだんツイートすることもなくなってきます。一体何が楽しくて俺達はツイッターをしているのか。
 あと大学で前期にやってたゼミを終えました。わいわい。後期は熱力学の方をやっていきたいと思います。

2.雑感
 大前提としてツイッターというものは活字中毒の解消としては最悪の選択肢です。やめるとそれを本にぶつけられるのでとても良いです。
 また、今回わたしは三浦春馬さんの死をツイッターを介さずに知りました。きっとタイムラインには「三浦春馬って誰?」といった社会不適合しぐさが溢れたことでしょうが、ツイッターをやめればそういうことにも出会わないです。
 今後も適度なインターネット生活をしていきましょう。


3.些事
 以下はツイッターを離れてた期間の日記から抜粋。

これは僕の人間性の問題だろうけれども、とかく「クラスタ」というものが苦手だ。ぼくは、人間は個という点から思考や趣味嗜好によって意識の線が様々に伸びており、人間関係というのは各人の様々に伸びた意識の線の交点の集まり、というように考えている。だから集まりに何かしらの共通した関係性(興味だとか、思考だとか)が入っているのも当然だと思うのだが、それを明確に視覚化してしまうかどうかは別である。なんでもない人間同士がふいに交わることを至上命題にしているような人間には、一定人数以上が集団として固定化されると途端に具合が悪くなってしまう。

 要するに群衆が生えると離れたくなっちゃうんですよね、ひねくれオタクなので…………。

辞書が欲しいな、と思った。国語辞典と英和辞典と英英辞典の三つ。ぼくの家には辞書の類は──そもそも本自体が無いに等しい冊数だったが──まるでなくて、語彙を身に付けるには生の本を読むしかなかった。だが最近になって、英語学習で電子辞書だけは険しいということと、単純に英英辞典が読みたいという気持ちが湧いたこと、ついでに国語辞典も読みたくなったなどの気まぐれで辞書読みたい欲が出た。ということであとでAm*zonの干し芋の方に吊るしておこう。あとは養ってくれる歳上お姉さんを見つけるだけである。

 結局干し芋に辞書を入れてない(てへ)。どの辞書が良いとかあるんですかね。あと養ってくれる歳上お姉さんは常時募集しています。哲学と数学の話はほんのちょっとできます。養ってくれたお返しに自分が勉強したことを話したりできると思います。


4.おわりの言葉
 ツイッターを捨てよう、書を読もう。